礼拝説教要旨(2009.01.11)        
神にのみ仕える
(マタイ 6:22〜24) 
  主イエスは、「自分の宝は、天にたくわえなさい。・・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです」と語っておられる。地上のことに心を奪われ易い私たちに、心を天に向けること、天におられる神に信頼し、神に心を向けることを教えられた。そして更にその教えを展開された。「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。・・・」(22〜23節)

1、心がどこを向いているのか、心で何を見ているのか、そのことが大事だと指摘しておられる。「あかり」は暗闇を照らす光である。目がからだのあかりであるとは、心の目がはっきりと見えているか、また何を見ているかの大切さを告げている。暗闇を手探りしているのか、それとも進む足元が明るく照らされているのか・・・。夜道の暗さを余り感じない都会に私たちは住んでいるが、光なしに人は生きては行けない事実を忘れてはならず、確かに光となる目をもって生きることの大切さを覚えなければならない。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)

 「もしあなたの目が健全なら、・・・」「もし、目が悪ければ、・・・」と語って、目が明るく澄んでいるか、それとも目が悪いかを問い、見るべきものがはっきり見えているかどうかを問題とされた。見るべきものを見ているかどうか・・・である。心を見ておられる神の前に生きていることを心に留めているか、それとも忘れているかということでもある。施しをするのに世間の目を気にしているのか、祈る時、祈る自分を人に見せようとしているのか、そして断食をするのに、人に分ってもらおうとするのか、そのようにしていると、目の前の肝心なことが見えないままで過ぎてしまうのである。

2、目の前の現実を直視して正しい判断ができるか、それとも、見ても判断できずに目をそらすのか、その判断力が問われている。「もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」正しい判断ができない目の悪さ、心の鈍さは絶望的である。貧しい人を見ても見過ごす目、助けを必要とする人がいても通り過ぎてしまう心、そんな心の鈍さが「目が悪ければ」と表現されている。宝を地上にたくわえようとする人は、その宝にしがみついて目の前のことの判断を誤る・・・と、主は警告しておられるのである。

 強盗に襲われ、半殺しにされて道端に倒れていた旅人を見ても、祭司とレビ人は避けるように道の反対側を通り過ぎて行った。ところが「あるサマリヤ人が」そこに来合わせた時、「彼を見てかわいそうに思い、近寄って」介抱したのであった。このサマリヤ人の目は健全で、澄んでいたのである。時間も労も惜しまず、また財も惜しむことなく差し出した。自分にも自分の持ち物にも縛られていなかったからである。金持ちと貧乏人ラザロのたとえ話もしかり。毎日贅沢に遊び暮らしていた金持ちの門前にラザロは寝ていた。金持ちは見ても気づかず、気づいてもそ知らぬ振りをしていた。心が鈍くなって、真実を見抜けないとすると、それは悲しむべきこととなるのである。
(※ルカ10:30以下、16:19以下)

3、「だれもふたりの主人に仕えることはできません。・・・」答えは明解である。単純でもある。私たち神の民は、神を主人とする、神に仕える民であると自覚することが肝心となる。私たちがこの地上で手に入れるものは、仕事や財産も全て、自分の責任で管理したり、活用したりを、主人である神から任されるものである。ところが知らずして、神から管理を任されていることを忘れ、自分の責任で何でもできるかのように錯覚する。やがてこの世の富に心を奪われ、それに支配される。聖書の中の聖徒たちでさえ、この世の富の惑わしには無力であった。富は神を忘れさせ、自分の周りの人々の必要を見失わせて、自分だけが栄えることを求めさせるのである。(※ソロモン王や他の王たちのことを思い出す。)

 富の惑わしはすさまじいものである。私たち人間はその富を支配できると考え、反対に富に支配され、遂には滅びへと向かわせられる。「神にも仕え、また富にも仕えることはできません。」二人の主人に、どちらにも同じように仕えることができる・・・と考えても、実際にはどちらをも疎んじることになり、私たちの生き方は、全く行き詰まるしかないのである。神にのみ仕えることをはっきり心に決めること、それが私たちの生き方の根底となることが求められている。二心でなく、一心に神に仕えること、そのことを主イエスは教えておられたのである。心を見ておられる神の前に生きるには、はっきりとした覚悟が大切!と。

<結び> 私たちは、神にのみ仕えることを導かれたい。そうする時、心の目が開かれ、目の前の現実を正しく判断することができるのである。助けを必要としている人がいる時、躊躇うことなく手を差し伸べることが導かれるに違いない。例えば、必要のある尊い働きのため寄付すること等、多くの目の前にある現実に対して、何をするのかが明らかになるのである。神に仕えることが明確であるなら、神が私たちの目を開いて気づかせ、そして用いて下さるからである。神を信じて、神に従い、神にあって揺るがない日々を生きること、それが私たちの幸いであると、感謝をもって歩ませていただきたいものである。