礼拝説教要旨(2009.01.01)        
神の国とその義とを
(マタイ 6:31〜34) 
  主の2009年を迎え、この年も主の前に集う礼拝から歩み始められることは真に感謝すべきことである。私たちは、天地を造られた真の神がおられることを信じている。その神が、神に背いて罪ある者となった私たちを救うため、救い主を遣わして下さったことを信じている。世の人々も思いを新たにする新年であるが、私たちは聖霊の導きにより、キリストの十字架を仰いで、真の神に礼拝をささげる幸いに導かれている。これに優る感謝はないという程のことであり、主なる神が備えて下さった幸いである。この礼拝において、思いを新たに主イエスの教えに耳を傾け、この年の指針をいただきたいものである。

1、年末年始、多くの人が自分から進んでするかどうかは別にして、行く年を振り返り、来る年を思って期待に胸を膨らませることをする。ところが、今年はなかなか期待に胸を膨らませるのは難しい、そんな空気が世界中に広がっている。先行きの不安が強まり、政治も経済も光が射す気配がない。それは言い過ぎと指摘されるかもしれない。けれども現実は、マスコミ等で知らされている以上に深刻なのであろう。私自身は、1970年代のオイルショック、1990年代のバブル経済の破綻に続いて、今また金融バブルの破綻により、本当に大切なものは何なのか、あなたの拠り所は何か、全てを失っても残るものを持っているか・・・と問い直される時、それが今と思われてならない。(※生ける神は、歴史を通じて、繰り返し手を差し伸べ、問い掛け続けておられる。)

2、主イエスは、神を信じていても思い煩うことがあり、日々の生活のことで心配が膨らむ人間の弱さを知っておられた。そのような弱さを思いやりつつ、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・・」と語られた。神を知らない人々と同じように心配するのではなく、見守って下さる神がおられることを覚えて安心しなさい、神がおられので、その神の絶対的なご支配に寄り頼みなさいと命じておられる。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべ与えられます。」神が共におられることを信じて、神の正しさを追い求めて生きること、これが人の生き方の第一であるというのである。何があってもうろたえない生き方、慎みある生き方、つつましい生き方、それは心から神を恐れ、敬うことによって導かれるものだからである。

3、神を信じていない人々に向かって、そのように生きて欲しいと求めているのではない。信じている人こそが、信じている通り、「神の国をその義とをまず第一に求める」生き方をすること、それが求められている。心から信じる者として「今日」を生きること、そのことを主イエスは教えておられるのである。「あすのことはあすが心配します」とは、「あしたはあしたさ・・・」のように捉えがちである。けれども神を信じる者にとって、「あす」もまた神の御手の中にある「あす」であって、神はあすの心配も引き受けて下さっている。神の御手の中にある幸い、その守りの確かさは絶対である。世の中がどのようになろうと、揺るがない守りを神は備えておられるからである。このことを見失ってはならない。

<結び> 世の中の不安定さ、また暗く沈んだ現実の前に私たちの心は騒ぐばかりである。けれども、それらは私たちの心を、神の守りの確かさへと導いてくれるものである。すなわち、本気で神に信頼することを学びなさいと招かれている。あれにも頼り、これにも頼ろうとするのではなく、キリストを遣わして下さった神にのみ頼る信仰、この信仰に生涯変わることなく生きることを、はっきり確認してこの年を生きることを導かれたい。神は必ず全ての必要を満たして下さると、主イエスが語られたからである。