礼拝説教要旨(2008.12.28)        
御救いを見たからです
(ルカ 2:22〜38) 
 ベツレヘムでお生まれになった救い主は、飼葉おけに寝かせられていた。その救い主に、最初に会う幸いを得たのは羊飼いたちであった。その後、幼子はイエスと名づけられ、マリヤとヨセフに見守られて成長していた。人間の姿をとられた神は、人間としての全てを引き受けておられた。人が経験する痛みや苦しみ、また喜びも悲しみも、そして危険をも含め、全てがこの幼子の上に降り掛かるのである。(22〜24節)

1、両親は幼子イエスを特別視することなく、男子の初子は「主に聖別された者」との定めを果そうと、きよめの期間(男子40日、女子70日)が満ちるのを待って、主にささげるために宮に上った。(出エジプト13:2、13)律法は、モーセ時代の出エジプトの出来事、全ての初子は主のものとされたこと、そのようにして神の民がエジプトから救い出されたことを決して忘れないように、「男子の初子はみな、贖わなければならない」と定めていた。両親はきよめの期間が満ちたことの犠牲と、男子の初子のための犠牲のささげものを果そうとしたのであった。(レビ12:6〜8)

 実際にマリヤとヨセフがささげた犠牲は、羊を買う余裕のない人々に許された鳩であった。これは彼らが本当に貧しくて、つつましくしていたこと、救い主が真に低くなったおられたことを物語っていた。人となって世に来られた方と簡単に言ってしまうが、それは私たち人間の思いを遥かに越えている。一番低い所にまで降りてこられた方、その低い所で経験する全てを割引なしに経験し、その上で「主に聖別された者」として必要なことは全てを成し遂げられる方として、救い主は地上の生涯を歩まれた。幼子のイエスは、私たち人間の弱さや痛みの真っ只中で成長しておられたのである。(※ヘブル4:15)

2、このエルサレムの宮で救い主に出会ったのが、シメオンとアンナであった。シメオンは、「正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた」と記されている。(25節、口語訳:「正しい信仰深い人」)ザカリヤとエリサベツ、またヨセフと同じように、律法を注意深く守り、神の前に正しく歩もうとしていた、そのような人であった。(1:6、マタイ1:19)その彼の上に「聖霊がとどまっていた」ことが記され、「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」ことも記されている。彼は聖霊の特別な働きにより、神に従う日々を明確に生きていた。(26節)

 このシメオンが、その日「御霊に感じて宮に入ると」、そこで幼子イエスを連れた両親と出会うのである。彼は「幼子を腕に抱き、神をほめたたえて」歌った。(27〜30節)「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」「主のキリストを見るまでは、決して死なない」と告げられていた彼が、「今こそ・・・安らかに去らせてくださいます」と言うのは、「あなたの御救いを見たからです」との喜びからであった。彼は、幼子が「キリスト」であることをはっきりと見たのである。老人となっていたシメオンであるが、これまで生かされてきた感謝と、今こそ地上を去る時の近さを思っての安堵が、その言葉に込められていた。神の手の中にある幸いを感謝していたのである。

3、彼は幼子イエスに、神の救いを見ていた。「御救いはあなたが 万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(31〜32節)イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた彼であったが、幼子に見た救いは「万民の前に備えれたもの」、「異邦人」をも照らす光であり、それこそが神の民「イスラエルの光栄」と呼ぶものと悟ったのである。神が用意して下さった救いとは、それ程のものであったことに圧倒されていた。心の目が開けて、「私の目があなたの救いを見たからです」と歌っていたのである。驚き戸惑うマリヤとヨセフに向かって、シメオンは更に、この救い主は人の心の思いを明らかにされることを告げるのであった。(33〜35節)

 丁度そこにもう一人、女預言者のアンナがいた。彼女は「宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」84歳になっていたという彼女は、神礼拝こそが中心という生活をして、その日も宮にいて、幼子に出会ったのである。神が約束して下さった救いを待ち望んでいた彼女も救い主に出会い、その喜びを他の人々に分かち合う幸いを味わった。彼女は想像を絶する苦労の人だったと思われる。短い結婚生活の後やもめとなり、以後、神に仕える道を選んでいた。「この人は非常に年をとっていた」との表現には、彼女の生涯の苦労が込められている。確かな救いを待ち望む日々を送っていた彼女は、その辛い思いが吹き払われる感謝を神にささげたのである。(36〜38節)

<結び> シメオンは「私の目があなたの御救いを見たからです」と歌った。そしてアンナは人々に、「幼子のことを語った。」ルカ福音書はこの二人の老人も救い主にお会いしたことを記して、罪人を救う神の救いのご計画は、万民の前に備えられていることをはっきりと告げている。「私の目があなたの御救いを見たからです」との告白、また賛美の言葉は、神の救いを見た者なら誰でも、心からの叫びとして上げることのできるものである。

 シメオンとアンナは幼子のイエスに会うまで、虚しい思いで生きていたのだろうか。そうではなく、神を見上げ、救いを待ち望んで生き続けた二人である。その二人に神は救いを一層確かなものとして見せて下さった。その後の日々、二人は益々力をいただいて生きたのに違いない。神が約束して下さった救いを待ち望んで生きる者を、神ご自身がはっきりと救い主に出会わせ、御救いがどんなに素晴らしいかを教えて下さるのである。私たちも確かに救い主にお会いすることが導かれるように、そして、「私の目があなたの御救いを見たからです」との証しに進ませていただけるなら何と幸いであろうか。