マリヤへの受胎告知、ヨセフへのみ使いのお告げ、そしてマリヤとヨセフの夫婦としての生活の始まりと、救い主の誕生に向かって、神の救いのご計画は着々と進んでいた。二人はガリラヤの町ナザレに住んでいたが、丁度その頃、ローマ皇帝による住民登録の命令によって、ユダヤのベツレヘムへと向かわせられることになった。人々は皆それぞれの家系に従って、自分の町で登録せよと定められていたからである。ローマ帝国の強大な力の前に、民はただ従うしかない現実が、身重のマリヤを伴ったヨセフに重く圧し掛かっていたのである。
(1〜5節)
1、旅を続けた二人の姿は、ほとんど人の目に留まらず、他の人々に紛れていたに違いない。この二人自身も、格別に神のご計画を意識することもなく道を急いでいた。けれども神の側では、ダビデの家系のマリヤとヨセフを選んでおられた。旧約聖書で約束された通りに、処女マリヤを選び、聖霊の御業として男の子を宿らせておられた。そして今ベツレヘムへの道を行かせ、その町で、救い主が誕生する時を迎えさせようとしておられた。二人は権力の命令に従うだけであったが、神はその一切を支配し、ご自身のご計画を進めておられたのである。(※イザヤ7:14、9:6〜7、11:1、ミカ5:2 )
ベツレヘムに着いた二人には、身を寄せる宿屋もなく、幾日かが過ぎる間に、マリヤは月が満ちて、男の子を産んだのであった。生まれた幼子は布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられた。その理由は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(6〜7節)何度読み返しても、また聞かされても、何か淋しげで、物悲しい光景が目に浮かんでくる。けれども、これが幼子のイエス、救い主イエス・キリストの誕生であった。歌に歌われる通り、「ユダヤの田舎のベツレヘム」「宿にも泊まれず家畜小屋で、マリヤとヨセフの二人だけ」、「小さな、小さなクリスマス」である。巷のクリスマスの異常さが際立つ!
2、神は、確かに「救い主」を世に遣わしておられた。「飼葉おけ」に寝かせられた、その幼子こそが「救い主」であった。そして神は御使い遣わして、野宿で夜番をしていた羊飼いたちに、この喜びの知らせを告げられた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(8〜14節)その知らせを聞いたのが、なぜ羊飼いたちだったのか。なぜもっと多くの人に知らせることがなかったのだろうか。多くの「なぜ?」がある。
神が人となって地上に来られ、人と共に住んで下さることが、何を意味するのか。最も低くなって世に来られることが、何に表れているのか。そうしたことの意味が、「飼葉おけのみどりご」に込められていた。(※ピリピ2:6〜7) そして、そこに近づくのに相応しい人は誰か、また誰もが妨げられてはいないことを示すため、当時の社会で蔑まれていた人々、その存在を尊ばれてはいなかった羊飼いたちが選ばれたのである。神はそのような人々にこそ、救いの手を差し伸べていることを示すためであった。また、神が自ら低くなられたこと、そして、人も自ら低くなって神に近づくことの大切さを示そうとしておられたのである。
3、御使いたちが去った後、羊飼いたちは躊躇うことなく、「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と、「急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。・・・」(15〜19節)彼らが喜々として、二人に話している様が目に浮かぶようである。彼らは「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。」(20節)羊飼いたちは、心から神を信じる人々であった。彼らは、飼葉おけのみどりごに会って、心から喜び、神を礼拝したのである。もし疑うなら、また御使いの知らせを聞き流していたら、決して出掛けることはなかった。しかし、神が知らせて下さったことをしっかりと受け留めたのである。
お生まれになった救い主は、「飼葉おけ」に寝かせられていた。羊飼いたちは、「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます」と告げられた。そして彼らは、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」を捜し当てた。「飼葉おけのみどりご」こそ、来る者を誰も拒むことのない救い主である。近づく者を遠ざけるものは何もなかった。隔ても、威嚇するものも、何ら妨げるもののない「飼葉おけのみどりご」、これが救い主であられる。この救い主にお会いして、羊飼いたちは大喜びしたのである。このことは、全ての人がこの救い主のもとに招かれていることのしるしであった。この方の所に行く救いへの道には、何の妨げもないのである。
<結び> 幼子は八日目に「イエス」を名づけられた。(21節)マリヤにもヨセフにも告げられていた「主は救い」という意味の名である。二人が神を信じ、神の御業が成ることを信じて従っていることが表れている。そして私たちは、今朝、この二人と、また羊飼いたちと共に、確かに「救い主」にお会いするようにと招かれている。「飼葉おけのみどりご」であった「救い主」は、やがて十字架の上で身代わりの死を遂げて下さった「救い主」である。自らを低くして人間となられた方が、十字架の死を遂げるまで低くなられたのである。いと低くなられた「救い主」のお姿を、私たちは「飼葉おけ」と「十字架」に見させられているのである。
「十字架」には惨さや痛ましさが溢れているため、近づき難い・・・と思うことがあるとしても、「飼葉おけのみどりご」には喜びや微笑ましさがある。何よりも優しさがある。誰もが躊躇いなく近づくことができるよう、神は救いへの道を分り易く、そして踏み出し易く示しておられるのである。今日ここにいる全ての者が、救い主の前に近づき、ぬかづくことが導かれるなら幸いである。そして「飼葉おけのみどりご」を「救い主」と拝し、神に心からの賛美をささげたいものである。 |
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