礼拝説教要旨(2008.12.14)        
信仰の人ヨセフ
(マタイ 1:18〜25) 
  「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。・・・」(ルカ1:26以下)との突然の知らせに、マリヤの心は大いに騒いでいた。けれども、「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えたマリヤは、主に任せ、主に信頼して歩もうと決心していたのである。それでも、これから迫ってくる困難は予想がつかず、ヨセフにどのように伝えるのか悩んだに違いない。

1、ルカ福音書によると、マリヤが先ずしたことは、ヨセフに告げることよりエリサベツを訪ねることであった。「神にとって不可能なことは一つもありません」との御告げを確かめたかったのではなく、神の御業そのものに実際に触れたかったのである。そして、ヨセフがマリヤの身に起っていることを知ったのは、彼女がエリサベツと暮らした三ヶ月ほどの間のことであったと考えられる。彼はマリヤの口からどのように聞かされたのであろうか。何を言われても納得のいくことはなく、悶々とする日を過ごすばかりであった。

 ヨセフが気になって仕方がなかったこと、それは「聖霊によって身重になったことがわかった」と記されていることである。(18節)マリヤがそのように語ったからであろう。しかし、その「聖霊によって」ということを信じるのは容易ではなかった。自分以外の者の関わりを否定できず、悩んだすえ、「彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密にさらせようと決めた」のである。聖霊によることは信じられず、妊娠の事実を人々が知ることのない間に、マリヤがユダヤ人の社会で生きられる道を探ろうとしたのである。(19節)

2、ヨセフのこの決心は、彼が「正しい人であって」と記されているように、彼が神を恐れ、旧約聖書の教えに従って生きようとしていたからのことである。律法は、姦淫の罪に対して厳しく、石打の刑を定めている。(申命記22:13〜24)ヨセフは神を信じ、聖書の教えに従う「正しい人」であったので、教えを曲げたり見過ごすことなく、自分にできることを選択し、離縁することにしたのである。そうすることがマリヤのための最善という決心であった。神を恐れる者として、自分の正しさを主張して押し通すのではなく、自分は身を引くという選択をしたのである。

 このことをヨセフが思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れたのである。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。・・・」(20〜21節)信じられないでいたこと、すなわち、ことは「聖霊による」と告げられた。そして生まれてくる男の子に、名をイエスとつけることを命じられ、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」とはっきり告げられた。神がご自分の民を救うために、人となって世に来られることが告げられていた。ヨセフは、旧約聖書で約束されていたことが、今実現しようとしている、そのことを信じるよう導かれていたのである。(22〜23節)

3、ヨハネがその約束を信じたことは、眠りから覚めた時、「主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることなく、その子どもの名をイエスとつけた」ことに、はっきりと表されている。(24〜25節)彼は神が遣わして下さる救い主、罪からの救い主を信じたのである。それまでは妻マリヤを迎えるのを躊躇っていたが、神の救いのご計画の中に自分がいることを受け入れ、主の使いに命じられたとおりにすることを躊躇わなかった。神が共におられることを喜ぶ、そのような信仰に立ったからである。全知にして全能なる神がこれを成しておられるなら、その神に従おうとしているのである。

 ヨセフもまた、自分の身に起っていることを思い巡らす人であった。自分には理解し難いことで悩み、思いを越えたことに苛立ったりすることより、神がおられ、神が全てを支配しておられるなら、自分はどこに立ち、どのように振る舞えばよいのかを思い巡らすことができたのであろう。主のご計画が明らかになり、それを信じた時からは、もはや迷うことはなくなった。幼子の誕生まで、なお多くの困難や障害があったことが想像できる。けれども、この短い簡潔な記述からは、ヨハネの迷いのなさや、信仰に立つ力強さが感じられる。ヨハネは、確かに信仰の人であったと。

<結び> イエスの母となったマリヤ、そしてマリヤの夫ヨセフ、この二人から学べること、それは主の言葉をはっきりと信じたことである。マリヤは「あなたのおことばどおりこの身になりますように」と語り、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、・・・その子どもの名をイエスとつけた。」私たちはこのような明確な信仰に学び、お生まれになった救い主、主イエス・キリストを心から信じる者とさせていただきたいのである。

 罪からの救いこそ、私たちに必要な救いであり、人として生きる上で最も大切なことである。人の心は神に立ち返ることなしに、決して満たされることはなく、平安を得ることはないからである。神が人となって共に住み、十字架で罪の代価を支払って下さった方、この方が真の救い主、信ずべきお方である。