クリスマスの季節を迎え、時の過ぎ行く速さを思わないではいられない。けれども、今年も救い主のお生まれをお祝いできる幸いは、何よりの感謝である。昨日の市民クリスマス、来週の子どもクリスマス会、21日にはクリスマス礼拝、そして24日にはキャンドルサービスと、喜びの機会が次々と巡って来る。この季節に、街中いや世界中がクリスマス一色となる光景は不思議でならないが、私たちは救い主の誕生を喜び、心からクリスマスを祝いたいものである。
1、クリスマスの出来事について、「よく知っている」と思い込んでいることはないだろうか。多くの教会が、毎年のように降誕劇をし、ある方は同じ役を専門で演じるということがあったり、子供の頃、クリスマス会で天使の台詞を覚えましたという方や、プレゼントが楽しみでしたという方が大勢おられるわりに、本当のクリスマスは年々どこかに追いやられているかのようである。もしや私たちまでも、クリスマスの意味を取り違えて、間違った形で祝っているいることはないか・・・と危機感を覚える。だからこそ、聖書に添って、最初の出来事に目を留めることが大切となるのではないか。
福音書を記した医者ルカは、「すべてのことを初めから綿密に調べ・・・順序を立てて」書こうとしていた。またテオピロという人物に、キリストに関して教えられていた事がらが、「正確な事実であることを、よくわかっていただきたい」と願っていた。(1:1〜4)そのような意図を込めて、幼子イエスの誕生の出来事を書き記した。母となったマリヤの証言を元に、その前後にあった不思議な出来事を詳細に記しているのが、ヨハネの誕生、受胎告知、エリサベツ訪問、イエスの誕生とエルサレムの宮でのこと、そしてイエスが12才の時のことであった。一連の出来事の中で、マリヤの心が大いに騒いだこと、それは御使いガブリエルによる知らせであった。
2、御使いの挨拶は、いきなりのものであった。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」マリヤはひどく戸惑うほかなかったが、それに続く言葉は、一層彼女を戸惑わせた。「あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」御使いは、イエスと名づけられる男の子は「いと高き方の子と呼ばれ」、すなわち神の子であり、「ダビデの王位」を継ぐ者であると明言した。マリヤは益々驚き、自分の身にそんなことが起るとは、とても考えられないでいた。ヨセフと婚約していても、まだ一緒になっていなかった彼女には、理解しようにも、どうにもならない不可解なことが告げられたのである。(26〜34節)
けれども、全ては全知にして全能なる神のご計画に従って、事が進められていた。神はご自身が約束されたことを、その時が満ちて実行に移そうとされたのである。御使いは、聖霊によってマリヤの胎に男の子が宿ることを告げ、その不思議を彼女が受け入れられるように、親類のエリサベツの身に起っている不思議を知らせ、その上で「神にとって不可能はありません」と明言した。一方的な宣告であったので、彼女はただ聞くしかなかったが、一言一言が胸に留まり、心の中に届いた。聞き終えてマリヤは答えた。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」それ以外には言いようがなかった。しかし、確かな応答が導かれたのである。
(35〜38節)
3、御使いの突然の現われから、マリヤと御使いの言葉のやり取りには、どれ位の時間を要したのであろう。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と言葉を発するまで、マリヤの心は大いに騒いだに違いなかった。自分に置き換えるなら、果たしてそのように言えるであろうか。戸惑いや疑い、そして恐れからなかなか抜け出せないでいるに違いない。しかし彼女は、「ほんとうに、私は主のはしためです」と心から認めたのである。彼女の信仰の確かさ、それは自分を「主のはしためです」と告白する率直さにあった。神がおられ、自分がいる。神に対して自分は仕える者であり、神が成さることは一切のことに優先すると認める潔さ、この信仰を持っていたのである。
(※ルカ1:45)
確かな信仰があったということで、マリヤは真に幸いであった。最初に「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と告げられて、戸惑いはしたが、彼女は「主がともにおられる」ことの幸いを理解したのである。自分の身に何が起ろうとも、主が共におられるなら、決して恐れることはない。一人ぼっちになることは決してないからである。そのことが分ったので、彼女は自分の身を主に任せることができた。「私は主のはしためです」と答え、そして「おことばどおり・・・」と主に任せたのである。そこまで主に任せたマリヤの人生は、責任は主が引き受けて下さることになり、彼女自身では、主がどのようにして下さるのか、期待に胸が膨らむことになるのである。
<結び> 主は確かにマリヤの胎に男の子を宿らせ、その命を育まれた。万全の守りを備え、助けを与えて幼子の誕生の日まで見守られた。主に身を任せたマリヤに、ザカリヤとエリサベツの親類を備え、夫ヨセフを備えられた主の計らいは、驚くほどのものである。主が共におられることの幸いは、目に見える形で現われ、主を喜ぶ者の交わりの中でしっかりと経験させられるのである。また主に任せることによって、主がその人を支えて下さるのであって、困難があっても道は必ず開かれるのであった。救い主の誕生は、そのような幸いなマリヤがいて、そのマリヤを主が用いて確かにこの地上で起ったことである。救い主の誕生を喜ぶとともに、マリヤの幸いをまた私たちの幸いとすることを祈り求めたい。 |
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