「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」(11節)このように語って、ヨハネはデメテリオを紹介した。彼は信頼に足る歩みをしており、皆の者から信頼されていると推薦したのである。丁度この手紙を携え、ガイオの元に向かっていたのかもしれなかった。教会に問題が山積みしていても、確かな証し人が一人いるなら、教会の先行きには光が射すに違いなかった。
1、手紙を締めくくるのに、ヨハネには第二の手紙と同じ思いがあった。「あなたに書き送りたいことがたくさんありましたが、筆と墨でしたくありません。」(13節)しかし、事情は少し違っていた。「間もなくあなたに会いたいと思います。そして顔を合わせて話し合いましょう。」(14節)ヨハネは、近々ガイオの教会を訪ねる予定であった。厄介な課題があったものの、顔と顔を合わせて話ができるのは喜びであり、楽しみにしていた。手紙では言い足りないことを、顔を見てはっきりと語ることは尊いことである。顔と顔を合わせ、心と心を通い合わせる関係を、聖徒たちこそ大切にすべきと考えたのである。
私たちの長老教会は、先週、年に一度の大会会議を開催した。二日に渡る会議であったが、「顔を合わせて話し合う」とても貴重な機会であった。スムーズに答えの出る議題がいくつかと、やや神経を使う難しい議題があって、疲れを覚える会議であったが、前回に比べると、議論することにおいて主に守られ、それぞれ何を考え、何を願っているかが見えて来た・・・という収穫があった。顔を合わせることは、年に一度でなく、もう少し回数があってもいいなと実感した。翻って普段の教会の交わりはどうであろうか。週に一度、主の前に集って礼拝をささげているが、週日の祈り会、また家庭集会など、顔を合わせて集える機会の一つ一つを、この上ない機会として喜び、感謝をもって主に向かうことができるよう導かれたいものである。
2、結びの言葉は、「平安がありますように」との祈りと、「よろしく」との挨拶である。(15節)平安を祈ることは、手紙の初めでも終りでもなされること、また人と対面した時、そして別れる時にする挨拶として、ごく自然なことであった。(※ヘブル語:シャーローム)そうした一般的な挨拶に加え、聖徒たちにとって、それは主ご自身が特別な意味を込めて下さったものである。主は十字架につけられる前、最後の晩餐の席で約束された。「あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)そして復活後に、「平安があなたがたにあるように」と弟子たちに語られた。(ヨハネ20:19、21、26)その「平安」にはいろいろな意味が込められていた。
罪の赦しを与えられた者の心にある「平安」、永遠のいのちを信じて与えられる「平安」、それに裏打ちされた他者との関係における「平安」、主が共におられることによる「平安」など、主イエスは「わたしが与えるのは、世が与えるのとは違います」と言い切っておられた。何よりも確かなもの、目の前の状況に左右されないもの、これがキリストが与えて下さる「平安」である。この世で苦難があり、肉体の命が奪われたとしても揺るがないもの、そのような「平安」を主は与えて下さった。それで主を信じる者たちは、「平安がありますように」と言葉を掛け合うのである。特に、問題や痛みの中にいる者に掛ける言葉として、真に相応しいものである。教会に、そしてこの地上の社会に必要なもの、それはキリストの平安だからである。
3、「よろしく」との挨拶も、キリストの「平安」を持つ者たちが互いに交わす挨拶として、真に相応しいものである。主の民がここにも、あちらにもいることを思い返すことによって、交わりの広がりを心に留めることが導かれる。パウロは、「兄弟たちからよろしく」、または「兄弟たちによろしく」と言う。ヨハネはここでは、「友人たちが」そして「そちらの友人たちひとりひとりに」と語る。彼は主ご自身から、自分が「友」と呼ばれたことを思い返していたのかもしれない。(ヨハネ15:15)互いに兄弟姉妹であること、互いに友であることのどちらも、キリストにある交わりの素晴らしさを表している。どちらを使っても、教会の交わりの豊かさを表していたのである。
ヨハネは、名前こそ挙げていないものの「ひとりひとりによろしく」と語り、心は一人一人に向いていたことを告げている。教会の交わりにおいては、真の牧者である主キリストが、一人一人を覚え、名を呼んで下さるように、互いに名前を覚え、一人一人を覚え合うことが、こと更に大切と気づかされる。互いに顔と顔を覚え合い、名前を覚えて祈り合う、そのような交わりが大切にされていたのである。私たちもその模範に倣いたい。現実に覚え合うことの難しさもある。けれども、意識して取り組んでみてはどうだろうか。(※「ひとりひとりに」:名前によって、名を呼んで)
<結び> 私たちが同じように、「平安がありますように」と挨拶を交わすのは、幾らか無理があるかもしれない。しかし、「平安」を祈り合い、「平安」な心で私たちが生きること、これは今日、何にも増して大切であると、誰もが認めるであろう。世の多くの人が、何事かに苛立ち、「平安」を見失っている。「恐れ」や「不安」が渦巻いている。私たちは既に真の「平安」、キリストが与えて下さった「平安」を得ているのである。この「平安」によって生かされている。それ故に「平安」を祈り、人との関係においても「平安」をもたらす者として生きることは何よりも尊いことである。そのような者として、主イエス・キリストは私たちを、世に送り出してもおられることを心に留めたいのである。
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