礼拝説教要旨(2008.11.23)        
善を見ならいなさい
(ヨハネ第三:9〜12) 
  「ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです。」(8節)ヨハネは、ガイオのもてなしの奉仕を認め、一層喜んでこの働きをするようにと励ましていた。同時に、彼が属する教会が抱えていた問題について、一言書き送らないではいられなかった。よい働きをしていた教会にも痛みがあったからである。

1、よい働きをしている教会にも問題があった、と考えるのは心が痛むことである。問題のないことを願い、よい働き、よい交わりを続けたいと願っていても、やがて何かしらの問題を抱えて行き悩むのは、ほとんど避けることができない。しかし教会にとって、それは試練であるが、尊い訓練となって報いを主から受けることになるのである。ガイオたちが経験していた訓練は、「かしらになりたがっているデオテレペス」という人物がいて、争いを引き起こしていたことであった。ヨハネは先にも手紙を送って注意を促していたが、彼は聞き入れず、教会の中でかしらになりたいと考えていた。(9〜10節)

 デオテレペスはガイオと対立し、そしてヨハネとも対立していた。その対立は「意地悪いことば」でののしることにおよび、教会に分裂をもたらしていた。ヨハネの使徒としての権威にも対立していたことは、キリストを第一とすることを疎かにするという、重大な過ちを犯していたことになる。それ故に、「私が行ったら、彼のしている行為を取り上げるつもりです」と厳しく語っている。教会の中に分裂を持ち込むことは、厳に慎むべきことであり、分裂や分派的に兄弟を振り分け、自分の権威を振りかざすしてはならない。教会はあくまでもキリストの教会であり、キリストに従うことを第一とするところである。(※「ののしる」:愚かなことを言う、うわさ話を言う ※テモテ第ー5:13)

2、キリストの教会はキリストを第一とするところであり、キリストに倣うことを学ぶところである。やっかいな問題に直面して、初めて第一にすべきことが見えてくることがあった。もちろん、これまでも学んできたのは確かであり、キリストを第一とし、キリストに倣って歩んでいたに違いない。けれども、今一度、「愛する者よ。悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です」との教えを、はっきり聞くことが求められていたのである。「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい。」多くの人は、そんなこと分っている・・・と言う。しかし、従っていない現実があるのが地上の教会である。(11節)

 それにしても、悪を倣うのにほとんど苦労しないのに対して、善を倣うのに、大いに努力がいるのは何故だろうか。使徒パウロは、「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」と告白し、罪ゆえの、人間の善に対する無力さを認めている。(ローマ 7:19)キリストによって罪から救われ、神にあって新しいいのちに生きることなしに、人は本当の意味で善に向かうことは不可能なのである。「善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者です。」ヨハネは、キリストの愛に触れ、神にあって生きる者とされた人こそ、善を行う者とされて生きるように励ますのである。そして、そのように歩んでいるデメテリオを紹介し、彼の真実な生き方が皆に知られていると告げた。(12節)

3、「デメテリオ」については、使徒19:24に同名の人物が登場するが、その銀細工人はパウロに敵対していた。後に信仰を持って、よい証しを立てていたとすると、それは素晴らしいことである。しかし、確たる証拠はなく、人物を特定できないが、「みなの人からも、また真理そのものからも証言されている」、そんな彼がいた。彼は、「神から出た者」として「善を見ならう」証しを立てていた。彼が真理に立って生きていることが、皆の人の目に明らかだったのである。そのような人が一人いることは、どんなにか周りの人々に勇気を与え、また慰めや励ましを与えたことに違いなかった。

 この世はしばしば、善を行う者を疎んじ、かえって悪を行う者をもてはやしさえする。正しさを脇に追いやり、不正に手を染める。悪さえ「必要悪」と言い張り、神を恐れようとしない。けれども、キリストの前に出るなら、一切が露とされ、全ての悪は退けられる。キリストの教会でこそ、「悪を見ならわないで、善を見ならいなさい」との教えを、はっきりと聞くことが求められている。キリストに連なる聖徒たちが、正しさや聖さ、そして善を追い求めることはことのほか大切である。神の子とされ、神にあって生きる者、神から出た者が、善を見ならい、真剣に善を行う者として、この世で生きることを、神ご自身が期待しておられるからである。私たちがどのように生きているのか、また生きようとしているのかが問われている。

<結び> 私たちが善を見ならうには、どのようにすればよいのだろうか。善と悪を見分け、判断することが必要となる。具体的な状況によっては迷いが生じるかもしれない。カギになるのは、みことばを心に蓄えていることであり、キリストご自身の教えや、キリストが歩まれた姿に倣うことである。善を見ならうには、キリストに見ならうこと・・・と。キリストがご自分を低くされたことを思う時、そして、このキリストに倣う時、私たちは自分を低くすることが可能となる。キリストの優しさに触れる時、私たちも心優しくなれるのである。キリストの愛に満たされる時、私たちは愛のない者であっても、キリストの愛に生きるよう導かれる。それは神がキリストにあって、私たちの内に成し遂げて下さる奇跡である。キリストが私の内にあって生きておられるからである。そんな歩みをさせて下さいと心から祈ろうではないか。
(※ガラテヤ 2:20、ローマ 7:24〜25)