礼拝説教要旨(2008. 1. 1)    
神は光であって              (ヨハネ第一 1:5〜10)
 新しい年、主の2008年を迎え、主の前に集う礼拝から歩み始められることは真に幸いである。天地の造り主こそ真の神であり、信ずべき方、一切の誉れを受けるべき方だからである。多くの人々が思いを新たに新年を迎え、何らかの形で礼拝行為をしようとする時であるが、何を願い、誰に祈るか、それはこの上もなく重要なことである。私たちは常に、聖霊の導きに従い、キリストを通して、生ける真の神に礼拝をささげ続けるのである。

1、ところで私たちは、年末年始に何を思い、どんなことに思いを馳せて過ごしているだろうか。過ぎる一年のまとめをして、新たに迎える一年への期待に胸を膨らませるというのが、一般的のようである。2007年の世相を表す漢字として「偽」が選ばれ、新年はあらゆることに「信頼回復」が求めれていることがその一例である。この地上に偽りがはびこっていることは、誰もが先刻承知していたはずである。それでも余りにも明らさまになって、慌てふためいてしまったのが現実ではないか、そんな気がする2007年であった。けれども同時に、一体誰が他の人の「偽」を裁くことができるのか、私自身が随分と問われたのも事実であった。神の前に自分を探られた上で、神に善しとされる歩みが導かれること、これが年頭には大切ではないかと。

2、私たちが信じている神、キリストを救い主として遣わして下さった神は、唯一人「真実で正しい方」である。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。・・・」(5節)この方を信じて生きる私たちは、神の光に照らされ、心の内さえも照らし出されて生きているのである。この事実を幸いと受け止めるのか、それとも不幸や不運と感じるのか、それによって私たちの生き方が決まる。聖書は、よくよく考えて見なさい、神に在って、神と共に、神の光の中を歩む幸いな人でありなさい・・と勧めている。あなたがたはもう既にその幸いを生きているのです、そこから離れないでいなさい・・と。

3、けれども、繰り返し自己点検することを教えている。「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。・・・」(6〜10節)私たち人間の側に偽りがあるとすると、その最たるものは「罪はない」と言うことである。他人の「偽」に敏感でいながら、自分の「偽」に鈍感であることを思い知らされる。聖書は、自分を正当化して「神を偽り者とする」過ちを犯さないよう警告している。神の真実さの前に、自分の罪を認めて告白する時、神はその真実さと正しさの故に、悔い改める者を赦し、神の光の中を歩ませて下さる。罪を赦された者に、魂の平安を与えて下さるのである。

<結び> 世の中の暗さ、不安定さ、不気味さ、そして人の心が冷えてしまった痛ましさが、マスコミによって次から次に知らされている。この地に偽りが溢れ、真実が見失われ、正義や公平は後回しにされることばかりが目に付く。そんな世に私たちが生かされているのは何故なのだろうか。生かされている意味は何なのだろうか。決して埋もれるためではない。やはり「地の塩、世の光」として生かされている。私たちは無力で、取るに足りない存在だとしても、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない」とキリストによって知らされ、教えられ、励まされて生きる時、私たちは「光の中を歩む」ことができる。私たち一人一人の歩みは、それぞれ置かれている所や遣わされている所で、必ずや光を放つ歩みとされるのである。神からの愛をもって愛し合い、仕え合う交わりを喜ぶ、そんな歩みを主なる神が備えて下るよう祈りつつ、この年を歩ませていただきたい。