礼拝説教要旨(2007.12.30)    
地の上に平和                  (ルカ 2:8〜14)
 ベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった救い主は、飼葉おけに寝ておられた。喜びの知らせを聞いた羊飼いたちは、飼葉おけのみどりごを捜し当て、救い主にお会いして、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。彼らの心は喜びに溢れていた。羊飼いたちがベツレヘムへと向かうことになる前、天の軍勢が現れ、神を賛美していた。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」たちまち、大勢の御使いが現れて、賛美の歌声を響かせたのであった。(14節)

1、おびただしい御使いが揃って歌声を上げる様子、それは聖歌隊による大合唱を思わす光景であったに違いない。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」これは、ラテン語で「グローリヤ・イン・エクセルシス・デオ」と歌う言葉であり、御使いは、救い主を遣わされた神にこそ、栄光があるようにと、賛美していた。神に栄光あれかしとは、喜びも誉れも賞賛も、全ては神が受けてくださるようにとの思いを込めた賛美の言葉である。神がおられる所、いと高き所で、神ご自身が栄光を受けておられた出来事、それが救い主の誕生であった。それは格別の喜びの出来事だったからである。

 御使いたちの賛美は「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と続いた。「地には平和、主の悦び給う人にあれ。」:文語訳(※「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。」:口語訳)御使いは、地に平和があるようにと賛美したが、その平和は「御心にかなう人々にあるように」と付け加えていた。全ての人に平和があるようにとは言わなかった。「主の悦び給う人に」「御心にかなう人々に」と限定されたのは、どのような意味があるのだろうか。それは、喜びの知らせが野原の羊飼いたちに告げられたことと関連する。心砕かれている神の民こそが救い主にお会いし、救い主がもたらす平和に与り、これを広める者となるようにと促していたのである。

2、救い主のキリスト=メシヤについて、イザヤ書では「平和の君」と呼ばれると告げていた。そしてキリストの支配については、「その主権は増し加わり、その平和は限りなく・・・」と、「平和」をもたらすことがその働きの中心であることが預言されていた。(イザヤ9:6〜7)11章の預言も、キリストは正義を打ち立て、やがて究極の平和をもたらすことを約束している。(イザヤ11:1〜9) 神は「平和があるように」と常に民に手を差し伸べ、民も「平和があるように」と祈りつつ、神の民は、その歴史を刻んでいたのである。そして今やキリストがお生まれになって、今こそ「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」と御使いたちが高らかにほめ歌ったのである。

 「平和」と訳される言葉は、ヘブル語では「シャーローム」、ギリシャ語では「エイレーネー」である。「平安」とも訳される。「シャーローム」は「平安がありますように」と挨拶に使われ、繁栄や幸福を願ってこの言葉が使われる。キリストはそのような「平和」をもたらす方として待ち望まれたのである。また「エイレーネー」は争いのない「平和」な関係を意味する言葉として、新約聖書では特にこの意味を込めて「平和」が説かれている。実際に神との平和も、人と人との平和も、親しい交わりが成立するか否かによって、「平和」か否かが分かれる。御使いの賛美には、救い主の誕生によって、先ず神と人との間の平和が実現し、それによって、地の上で、人と人との間にも、真の平和が実現するようにとの祈りが込められていたのである。

3、この賛美を聞きいて促され、飼葉おけのみどりごに確かにお会いした羊飼いたちは、地の上に平和をあらしめる、尊い役割を託されたのであった。彼らは喜びを人々に語り、また神を賛美していた。クリスマスの喜びの日々を過ごした私たちも、救い主のキリストにお会いした者として、キリストを信じる者、主の御心にかなう者として神との平和を与えられ、地の上に平和を実現すべく生かされている。地の上で、人と人との関係において、親しく心穏やかに接することができるのは、宝物のように尊いことである。神に愛されていることを知らずして、他の人と親しく愛の関係を築くのは容易ではない。ほとんど不可能である。余程のことがない限り、人は見返りを求め、自分の益を図るからである。神の愛に包まれることが、真に愛の人となれる道であり、互いに平和をもたらす秘訣である。

 神は御使いの賛美を通して、先ず天を仰ぐこと、天の神の栄光を仰いで後、地を見渡し、周りの人々に目を留め、互いに愛せよと教えておられた。神に愛され、恵みを注がれた人々こそが、互いに愛し合い、平和をつくる者として生きるよう招かれているのである。他の誰かれではなく、主を信じ、主に愛されていることを知る民こそ、互いに和らぐよう勧められている。キリストが救い主としてお生まれになったのは、このことのためである。罪を赦し、互いに赦し合える心を、心を砕かれたご自分の民に与えてくださるのである。キリストが「平和の君」と呼ばれるのは、このような「平和」をもたらすためであった。この「平和」を地に広めること、それが神の民の務めである。

<結び> クリスマスのメッセージの一つは、間違いなく「平和」である。このメッセージをクリスマスの季節に限定しないよう心したい。また、「平和」をただ口にするのではなく、「平和」を生きるよう導かれたい。神の民であっても、そしてキリストの教会であっても、私たち人間は多くの失敗を繰り返し、口先だけの「愛」に生きてしまうからである。聖書は繰り返し警告を発している。パウロが諸教会に送った手紙のほとんどに「互いに赦し合いなさい」との教えが記され、「キリストの平和」が説かれ、祈られている。また争いを止めるよう戒めている。人の心はそれほどに頑ななのかと驚くほどである。(コロサイ3:12〜17、エペソ4:32〜5:2、ローマ12:9〜21、16:33、ガラテヤ5:13〜26)

 人と人の関係ばかりでなく、民族と民族、そして国と国の関係にも、キリストの平和がおよぶことを私たちは祈る必要がある。天を仰ぎつつ、地に平和があまねく満ちることを祈り、労すること、それが私たちの務めであると自覚させていただきたい。そのために「飼葉おけに寝ておられるみどりご」にお会いすること、拝することを、私たち一人一人が確かに導かれることである。スヤスヤと眠るみどりご、幼い赤ちゃんを見つめる人が、ほぼ例外なく心穏やかにされ、安らかにされるのは確かである。十字架に死なれたキリストに神の愛を見ることが大切であるとともに、飼葉おけのみどりごに神の愛が溢れていることを、しっかり心に刻みたいものである。