喜びのおとずれの出来事は、老夫婦ザカリヤとエリサベツの生活の変化、マリヤへの受胎告知、そしてヨハネの誕生と続き、着々と進行していた。神はご自分の語られたことを必ず実行される。マリヤの胎の命は成長し、夫ヨセフも事の次第を御使いから知らされ、妻マリヤを迎え入れて月の満ちるのを待っていた。そんな二人に、住民登録という恐らく予期しなかったことが降りかかった。「おことばどおりこの身になりますように」と言ったマリヤであったが、身に降りかかることは、思いがけないことが多かったに違いなかった。
1、ローマの初代皇帝カイザル・オクタビアヌスは、紀元前27年に元老院から「アウグスト」という称号を贈られ、その称号がそのまま個人名のように使われるほど、帝国の支配を行き渡らせていた。(※「尊厳なる者」の意味)その皇帝の勅令が発せられ、「人々はみな、登録のため、それぞれ自分の町に向かって行った」のであった。この勅令は「クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。」(1〜2節)この福音書の記述は、やはりイエスの誕生が歴史上の事実であることを示すことにあった。時間を特定し、どこで、何があったかを告げようとしているのである。
ガリラヤのナザレの住民であったマリヤとヨセフは、その登録のため「ユダヤのベツレヘム」へと向かった。ダビデの家系であったヨセフは身重になっていたマリヤを伴って、「ダビデの町」である「ベツレヘム」に向かったのである。この二人だけでなく、多くの民がこの登録のため、移動を余儀なくされていた。世の為政者の力は絶大で、民はその力に振り回されるかのようである。百キロ以上の行程を身重の妻を伴ってする旅、その困難さや危険さは想像に難くない。二人で大事にして幼子の誕生を待ち望んでいたにしては、今この旅は酷であった。けれども、ヨセフには、マリヤと幼子を守る役割を神から託されていたようであった。
2、ヨセフもまた、主を信じて、主のご計画を心に留めて歩んでいたのである。彼は、マリヤの「胎に宿っているものは聖霊による」こと、そして「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と知らされていた。その知らせを信じたのでマリヤを妻として迎え入れ、子の誕生まで、何としても彼女を守ろうとしていたのである。(※マタイ 1:20〜25)「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。・・・」(6〜7節)幼子は布にくるまれ、飼葉おけに寝かせられた。「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」とその理由が記されている。
二人がベツレヘムに滞在している間に、月が満ちて、幼子の誕生を迎えた。彼らのいる場所がなく、すなわち出産のために備えられた場所がなく、とうとう家畜小屋で飼葉おけに幼子を寝かせることになった。神の救いのご計画は、このようにして実現していた。ベツレヘムでの誕生を二人が計画したわけではなかった。けれども、神は確かにそれを成し遂げられた。世の王として君臨するアウグストに対して、真の王は人知れずベツレヘムの飼葉おけに寝ておられたこと、この事実に目を留めるよう、この福音書は記されている。本当に大切なことは、富や力のあるところではなく、貧しさや弱さのあるところにあると。今はまだ人には知られていなくても、喜びのおとずれは確実に進展し、相応しい人々に知らされるのである。
3、喜びのおとずれは、野原の羊飼いたちに知らせられた。御使いは「幼子の誕生を「すばらしい喜びの知らせ」として告げた。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(8〜11節)夜通し羊の番をしていた羊飼いたちは、「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」と告げられた。「救い主」が「あなたがたのために」、そして「この方こそ、主キリスト」と。真の神が約束された救い主、メシヤ=キリストが今日生まれた!と喜びを知らせたのである。神の約束が今日成就したこと、これが大きな、すばらしい喜びであった。この喜びにあなたがたこそが、確かに与るようにと告げられたのである。
御使いは彼らに、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」を見つけるよう促していた。あなたがのためにこそ、救い主がお生まれになったことを知りなさいと。「これが、あなたがたのためのしるしです」とは、ただ捜し当てるための目印ということではなく、あなたがたこそがその幼子に行き着きなさいとの促し、励ましの言葉であった。彼らはその働きかけに促され、御使いたちが去った後、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」と出発することができた。彼らは「飼葉おけのみどりご」を捜し当て、救い主のお生まれを喜び、「神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(12節、15〜20節)
<結び> 救い主の誕生、救い主の到来という喜びのおとずれは、真に大きな「すばらしい喜びの知らせ」「福音」である。イスラエルの民全体、いや全世界の人々に知らせるべき「喜びの知らせ」である。ところが神は、これをひっそりと、人知れず起ったことのようにして、特定の人に知らせ、浮つくことのないよう、慎重にことを推し進めておられた。神がもたらしてくださる救いが、決して誤解されることのないよう、細心の注意を払っておられたかのようである。罪からの救いは、罪を自覚する人々、罪を自覚するからこそ心砕かれる人々にもたらされるものだからである。羊飼いたちは、そのような心を持つ人たちであったので、救い主に会った後、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。神は心の思いの高ぶる者でなく、心の思いの低い者、富む者でなく、飢えた者や貧しい者を招いておられる。真心から信じる人々を。
(※ミカ6:8)
私たちは、今日、喜びの知らせを聞いて、今、救い主にお会いする心、砕かれた心、悔いた心を持っているだろうか。(※詩篇51:17)「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました」との知らせを、「主が私たちに知らせてくださったこの出来事」と、感謝して受け留めているだろうか。ついつい大切なことを先送りする私たちである。羊飼いたちは、仕事中であったにも拘わらず、ベツレヘムへ急いだことは、私たちもそのようにするようヒントを与えてくれている。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」この方は、私たちを罪から救い出してくださる救い主である。御使いの知らせを、私たちも今日、はっきりと受け留め、救い主のお生まれを心から信じて感謝し、この喜びを賛美して日々を過ごす者とならせていただきたい。
|
|