礼拝説教要旨(2007.12.16) 
神が共におられる幸い              (ルカ 1:26〜38)
 祭司ザカリヤへの御使いの顕現から半年が過ぎた時、同じ御使いガブリエルは、ガリラヤの町ナザレに住むひとりの処女、マリヤのもとへと遣わされた。喜びのおとずれの出来事は、いよいよ救い主誕生の告知へと進んだ。御使いは、ダビデの家系のヨセフのいいなずけであったマリヤに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と告げた。先のザカリヤを同じように、マリヤもまた驚きと戸惑いを隠せなかった。いきなりの「おめでとう」、「喜べ」「喜びなさい」という言葉に、「いったい何のあいさつか」と考え込むのは当然であった。(26〜29節)

1、御使いは「こわがることはない、マリヤ。あなたは恵みを受けたのです」と語ったが、それに続く言葉は一層彼女を戸惑わせるものであった。「ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。・・・」「主は救い」との名、すぐれた者、いと高い方の子、いずれも神そのものを思わす子が生まれると。マリヤは一言一言を聞き取れたであろうか。恐らく最初の言葉、「あなたはみごもって、男の子を産みます」と聞いただけで、後はよく聞けないほど驚いたのではないだろうか。それで「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」と言うのである。(30〜34節)

 もちろんマリヤは非常な戸惑いの中でも、御使いの言葉をしっかり聞いていたのであろう。何と言われたか、記憶を呼び覚ましてルカに証言したので、この記事が残されるのであるが、その時の動揺は激しかったに違いない。自分がみごもって、男の子を産むとは考えられないことであった。この時のマリヤが何歳位であったか、いろいろ推論がなされる。いいなずけとなっていたが、まだ一緒には生活を始めていなかったことは、マリヤもヨセフも年若かったことを暗示している。二人とも十代であったかも知れず、マリヤについては十代半ばとも考えられている。そんな彼女が、事柄を理解し、御使いの言葉を受け留めるに至るのは、何がカギだったのであろう。

2、それはマリヤの「信仰」という答えは正しい。けれども、それは一面のみである。彼女が何を信じ、何を頼りとしたか、また彼女に働きかけた神ご自身は何をなさったか、そのことが何よりも肝心であった。戸惑うマリヤに御使いが語ったのは、どのようにして彼女がみごもるのか、その一番大事なことであった。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(35節)聖霊がマリヤに臨むのは、神の力が彼女を覆いつくすことにほかならない。神が彼女に宿って、神ご自身である神の子を世に遣わすというのである。聖霊が一切を成すと告げられたのであった。

 それに加えてエリサベツのことが告げられている。神が働いて今このようなことが起っていると、しるしが示されたのである。エリサベツが不妊であったことは親戚中に知られていて、マリヤも知っていたであろう。その彼女が「あの年になって男の子を宿して」いることは、全く不思議なこと、神が働いてこそのことであった。「不妊のおんなといわれていた人なのに、今はもう六ヶ月です。」(36節)そして「神にとって不可能なことは一つもありません」と言い切ることによって、神が全能であること、神が語られたことは必ず成ることが告げられた。マリヤが信じられるよう、神ご自身が励ましておられたのである。信仰は神の働きかけによって整えられ、保たれ、一層堅固なものとされる。決して人の確信や力によるのではないのである。(37節)
3、「マリヤは言った。ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(38節)彼女は信仰において何が大切か、それは神の言葉を信じることと理解した。御使いはザカリヤに、神の言葉は「その時が来れば実現する」ものと告げていた。今マリヤにも「神にとって不可能なことは一つもありません」と告げ、神の言葉は必ず成ることを信じるよう語ったからである。マリヤは自分が主のはしためであることを良しとした。主が望まれるように自分が用いられることを良しとし、「おことばどおりこの身になりますように」と言った。心から自分の身を神に明渡し、神に献身したのである。この献身を可能としたのは、神が共におられるとの確信であり、神から恵みをいただいているとの感謝だったのである。

 最初「主があなたとともにおられます」と告げられても、その実感はなかったであろう。また「あなたは神から恵みを受けたのです」と言われても、どんな恵みかと戸惑った。しかし、神が聖霊により自分に臨んでくださること、また胎に宿ることによって共におられるとするなら、これ以上の光栄はないと次第に理解し始めたのである。神が共におられることによって、かえってこれから先何が起るのか、不安さえ覚えたに違いない。けれども、その不安や恐れも、神が共におられるなら・・・と主に身を任せたマリヤであった。神が共におられることによって、大きな責任が降りかかるのが明らかであったが、それでも「あなたのおことばどおりこの身になりますように」とマリヤは答えている。彼女の心は、神が共におられる幸いに満たされたので、そのように言い得たのであった。
<結び> マリヤへの受胎告知は確かに印象的で、私たちの心にも深く刻まれる出来事である。彼女の信仰に私たちも倣いたいものである。しかし、彼女の信仰をどうのこうの言うより、彼女に迫り、彼女の信仰を励まし導き、力づけておられた神が、私たちに対しても同じように臨んでおられること、近づいてくださることを心に留めたい。神は一貫して「わたしはあなたとともにいる」との約束を繰り返しておられるからである。(出エジプト3:12、4:12、15、33:14、ヨシュア1:5、9、イザヤ43:2、5、マタイ1:23、28:20)そして神は今も生きて働き、私たちを用いようとしておられる。神は私たちと共におられ、私たち一人一人をもご自身のために用いようとしてくださる。神は私たちの内に住み、私たちを生かし、励まし、それぞれの務めに就かせてくださっているのである。

 神が共におられることを信じて、その置かれた所また遣わされた所で務めを果たすことは、私たちが気がついている以上に尊いことである。誰もが自分の力に自身が持てないのはある意味で当然である。人は決して強くはなく、弱くまた愚かなのである。けれども、神が共におられ、力を与え、助け導いてくださることによって、人の歩みは全く変えられる。その人の力には限りがあっても、神の力は限りなく、神には不可能はないからである。神が共におられる幸いは、神に身を委ね、神と共に歩む全ての人に約束された揺るがない幸いなのである。このクリスマスの季節に、私たちも確かにその幸いをいただき、マリヤと共に、神から恵みを受けている者、神が目を留めていてくださる者として歩ませていただきたいものである。