礼拝説教要旨(2007.12.09) 
喜びのおとずれのはじまり              (ルカ 1:5〜25)
 幼子イエスの誕生、そしてイエスの生涯、その行き着く十字架と復活の出来事が、「正確な事実であること」をルカ福音書は明らかにしようとしていた。ぼんやりと思い浮かべればよいことではなく、はっきりと信ずべきこととして、ルカはこの福音書を記し、イエスの誕生の詳細を告げようとした。5節以下、それに先立つ出来事を先ず記し、神が人の歴史にどのように介入し、またどのように人の思いに関わってくださるのかを告げている。

1、4節までの序文とは打って変わり、「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった」と記した。登場人物を紹介するのに、「正確な事実」すなわち歴史上の確かな出来事として告げるため、「ユダヤの王ヘロデの時」と時代を特定した。(5節)それは、紀元前40年から4年まで、ローマから「ユダヤの王」との称号を得て、北のガリラヤ地方から南のユダヤ地方に至るまで、かなり広い地域の統治を任された「ヘロデ大王」の時代であった。彼は純粋なユダヤ人ではなかったことからか、民衆に媚びるとともに、ローマにも媚びるなど、力の政策でユダヤを治める王として知られていた。

 そんな時代にザカリヤとエリサベツの老夫婦がいて、ザカリヤは祭司の務めをひたすら果たし続け、その日、丁度くじが当たり、神殿で香をたく務めを果たすことになったのである。祭司は代々アロンの家系により受け継がれていたが、妻もまた「アロンの子孫」というのは、「ふたりとも、神の前に正しく、主のすべての戒めと定めとを落ち度なく踏み行っていた」という、その一端を物語っていた。(6節、※レビ21:7、13〜15)他方この二人には、長年に渡って「子どもがなく」という痛みがあり、「ふたりとももう年をとっていた」ので、これから先、子どもを得る望みも失われようとしていた。それでも二人は神の前に正しく生き、心を騒がせることなく生きていたのである。(7節)

2、恐らく二人は、もう子どものことはあきらめて、二人して残された日々を生きることに心を傾けていたのであろう。一層神の前に正しく、また落ち度なく歩みことを願っていたに違いなく、祭司としての今回の務めは、今後二度とない機会として、心を込めてその日を迎えていたに違いなかった。24に分けられた組があり、その第8組がアビヤの組、その組の中で香をたくのは一生に一度で、くじが当たらなければそのままという祭司もいる中で、老年の自分がその務めを任されていた。緊張とともに栄誉な日を迎えていたわけで、多くの民衆の祈りにも励まされつつ、その務めに当たっていたのである。その緊張のさ中にみ使いが現れ、「香壇の右に立った」ので、彼は不安と恐怖に襲われたのであった。(8〜12節)

 み使いの知らせは「・・・あなたの願いは聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネをつけなさい。・・・」と驚くべき内容であった。(13〜17節)「あなたの願いは聞かれたのです」と言われて、自分が何を願っていたのか確かめさせられるようであった。神は老夫婦の願いを聞き届けておられたのである。神が答えてくださるその時は、願っている人の時と違っていても、「あなたの願い」を確かに聞いた!と神が告げておられた。その上神が成されることは人が願った以上のこと、生まれてくる男の子は、二人の喜びとなり楽しみとなるばかりか、多くの人の喜びとなり、主のために働く者となると告げられた。「ヨハネ」の名が意味する通り、「主は恵み深い」方として、ヨハネを用いてみ業を成そうとしておられたのである。

3、ザカリヤは直ちには信じられず、不信の思いを告げたので、そのために口が利けなくされている。彼がしるしを求めたので、そのしるしとして口が閉ざされたかのようであった。もし信じていたなら、歓喜の言葉を発しながら務めを終え、皆の前に出てきたのかも知れない。けれども彼は口が利けず、人々には合図を続けるしかなく、家に帰っても妻エリサベツとは、身振り手振りの不自由な日々を過ごすことになった。その間にエリサベツはみごもり、彼女は、喜びの感謝を主にささげていた。神が約束されたことは、必ず実現することが明らかになっていた。ザカリヤの心の内で、どんな思いが行き巡っていたことであろう。彼は男の子の誕生の日まで、神によって沈黙させられ、徒に騒がず、主のみ業を見届けるようにさせられていたと想像できる。(18〜25節)

 み使いは、「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです」と語っていた。男の子の誕生、その子が主の御前にすぐれた者となること、誕生前から聖霊に満たされていること、人々を主に立ち返らせ、整えられた民を主のために用意することなど、これから起ろうとしていることは「喜びのおとずれ」、「福音」そのものであった。神がご自身の民のために良いことを成してくださること、そのはじまりが始まっていた。静かに、確実に、決して上滑りすることなく始まっていた。その喜びのおとずれは、幼子イエスの誕生へと繋がるもの、「その時が来れば実現する」神が約束された福音そのものであった。最初信じなかったザカリヤは、やがて沈黙の内に信じる者へと変えられて行ったのである。

<結び> 神が救い主メシヤを世に遣わすという約束は、旧約聖書において繰り返されていた。けれども、その預言の成就を本気で待ち望んでいた人々は、そんなに多くはなかったのかもしれない。私たちも一つの願いごとを、その実現に至るまで願い続けることの困難さを知っている。しかし、神は力ある方として約束を必ず果たされる。神の時は人が考える時と違っていても、神は必ずや事を成し遂げられるのである。神のみ業に触れる者は喜びを与えられ、その喜びは周りの人々にも及ぶのである。ヨハネの誕生はそのような喜びをもたらし、更に大きな喜びを予感させていたのである。(※私たち一人一人の生活においても、いろいろな形で神は祈りを聞き、私たちの願いに答えてくださっている。その事実に気づく人こそ幸いである。)

 ヨハネが誕生する時には、もう既にマリヤの胎内でイエスが成長し、六ヶ月後の誕生の時が待たれていた。神が成してくださる喜びの出来事は、多くの人には知られていなくても、知る人ぞ知るところで着々と進行していたのである。不思議であるが、神はそのようにして、ご自分の民をその罪からの救おうとしておられたのである。私たちは福音書により、その全容を知る者として、幼子イエスを救い主と信じるよう招かれている。私たち全ての者が、ぜひ心から信じて今年のクリスマスの時を過ごしたいものである。喜びのおとずれは、確かにヨハネの誕生予告に始まり、やがて幼子イエスの誕生を迎え、イエスの十字架と復活へと発展し、その喜びのおとずれは全世界へと伝えられている。神を信じ、神とともに歩む日々のどんなにか幸いであるか、力強いものであるかをこのクリスマスに証ししたいものである。