礼拝説教要旨(2007.12.02) 
正確な事実としてのクリスマス              (ルカ 1:1〜4)
 季節は巡って12月、救い主のお生まれを祝うクリスマスを迎える時となった。今年は23日にクリスマス礼拝をささげるが、多くの教会では「待降節」としてこの季節を過ごすのが世界の通例となっている。そうした中で、日本の社会はどのようになっているのか・・・と問うなら、教会とは無関係にクリスマスが祝われている現状に驚かされる。それを「クリスマスも習俗として定着した」と歓迎する考えもある。けれども、果たしてそれでいいのか?と疑問も湧いてくる。私たちは今年も、確かな事実として救い主がお生まれになったことを心から祝って、クリスマスの時を過ごしたい。そのため今朝も聖書に目を留め、心を傾けたい。

1、21世紀に住む私たちにとって、救い主の誕生という最初のクリスマスはやはり遠い昔の出来事、なかなか現実感をもって捉えるのは難しい。おとぎ話なら実によくできた話、夢がいっぱいに広がるお話である。けれども、現実に信じられないことが起り、認め難いことが次々と起っていた。そのため初代教会の人々もまた、次第に事の真相についてはあやふやとなり、本当に起ったことなのか、それともただの話だけなのか、キリストを信じる者でも確信が揺らぐことがあったと考えられる。使徒パウロは、最も大切なこととして「十字架と復活」を伝えていたが、時間の経過とともにキリストの誕生もはっきりと伝えることが必要となっていたのである。(※コリント第ー15:1〜5)

 幼子イエスの誕生が紀元前4〜6年頃、イエスの十字架と復活が紀元30年頃、パウロの回心が33年頃として、ルカ福音書は60年頃に、パウロと行動をともにした医者ルカによって記されたと考えられている。60年以上の時間の経過というものが、どれだけ人々の記憶や思いを変えさせてしまうかは、今の日本の実情を見ても十分想像できる。今の内に書き残すことの必要をルカは覚え、そのことを福音書の序文に記したのである。その点でこの序文は特別の意味を持ち、かつ当時の事情を告げる貴重な証言である。(※聖書は神の言葉であるが、人を筆記者とする歴史的文書であることを示している。)ルカはパウロを初め使徒たちが伝えた福音の中身をよく知っていた。それは「私たちの間ですでに確信されている出来事」で、初めからの目撃者がいて、使徒となって熱心に伝えていたからである。(1〜2節、※口語訳:「成就された出来事」)

2、その伝えられた内容については、「多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みて」いた。それはパウロの書簡であったり、また当時イエスの言行録のようなもののほか、信仰告白の問答集のようなものがあった。マルコとマタイの福音書は既に記されていて、おそらくマルコ福音書は参照していたと考えられている。ルカはその確かに成就した出来事、確信されている出来事について、「すべてのことを初めから綿密に調べておりますから」と言い、それ故に「あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿」と記した。(3節)彼は大切な出来事について、初めから、順序立てて、丁寧に記したかった。十字架と復活だけでなく、そこに至る出発点、イエスの誕生と誕生以前のことをも書き記そうとしたのである。

 ルカは新しい書物を「テオピロ」という人物に献呈した。ローマの役人の一人で、既に信仰への道を歩み始めていたと考えられるテオピロが、既に教えを受けていた事が「正確な事実である」ことをよく分かるようにと願った。イエスの誕生も十字架も、そして復活と昇天も、全てはこの歴史上で確かに起った出来事だったからである。本当にあったことを何とかして分かってもらえるように、ルカはあらゆる資料を調べ、それを用いて福音書、そしてその後編となる「使徒の働き」を記した。イエスについての正確な情報という意味では、ルカ福音書は歴史書として大いに価値があり、テオピロのみならず私たちにとっても、信仰へ導いてくれる大切な福音書なのである。(4節)

3、イエスの誕生、最初のクリスマスの出来事を記すにあたり、ルカはイエスの先駆者として生まれた「バプテスマのヨハネ」の誕生のことから始めた。いつ、どこで、どのようにして、誰から生まれたかを記し、これが歴史上の確かな出来事、正確な事実であることを示した。(5節以下)読者は注意して読むなら、必ず気付くであろうこととして記していた。そこにどんなに不思議なことがあり、超自然のことがあって信じ難くても、起った事実は曲げられなかった。そしてマリヤへの受胎告知があり、やがてベツレヘムでの幼子イエスの誕生となるのである。(2:1以下)ルカはマリヤの証言を聞くことができた。マリヤは正確に事の次第を語る素養を持ち合わせていた。(ルカ2:19)それを聞くルカは医者であり、当時の社会にあっては知識人として、最高の知性や教養をもってイエスの誕生を検証しつつ、事柄を書き連ねることができた。

 幼子イエスの誕生も、いつ、どこで、どのようにして生まれたか、その当時の世界を誰が支配していたか等々、歴史上の事柄を記しながら、丁寧に書き記した。救い主の誕生は決しておとぎ話ではない、正確な事実であると。それはローマ帝国が強大な力を誇り、人々が抑圧され、一人一人の存在が決して尊ばれてはいなかった世界で起っていた。生ける真の神は、正しくそのような世界にこそ救い主を遣わしておられた。そして、その歴史への介入は全世界の全時代の人々への関わりであることが暗示されていたのである。ルカが記した時は、イエスの誕生から60年余りが経過しており、イエスの十字架と復活からも30年程が過ぎていた。その時期だからこそ「正確な事実」を残しておくことが大切であり、普遍性を持つ出来事だからこそ伝えたかったのである。

<結び> 私たちはクリスマスをどのように迎え、どのように祝うのだろうか。巷のクリスマスは今日益々盛んであるが、それは全く異質である。今世間では食品の偽装が大いに非難されているが、キリストなしのクリスマスは有り得るのかが問われる。そして教会自身が「正確な事実としてのクリスマス」を喜び、これを祝っているか問われるのである。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』と言うことばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」(テモテ第ー1:15)幼子イエスは、確かに罪人を救うためにお生まれになり、地上の生涯を歩まれ、十字架で身代わりの死を遂げられた。私たちはその救い主を信じ、そのお生まれを心から喜ぶのである。これに優る喜びはない!

 私たちと同じように人間の姿を取り、誕生から死に至るまで同じ苦しみや痛みを負って歩まれた方、それが主イエス・キリストである。神が幼子の形を取り、卑しくなって生きて下さったとは、人知を超えた出来事である。しかしそれは確かに成就した出来事であり、その出来事を世々の教会は信じ、確信して今日に至っている。信じた私たちは、これを受け伝えていく務めを与えられている。その意味でこの季節は証しの時として大切である。「正確な事実であることを、よくわかって」クリスマスを喜び、救い主のお生まれを祝いたいと心から願わされる。