「だれでもわかる聖書=キリスト教のABC=」と題して伝道集会を開き、伝道礼拝として主の日の礼拝を迎えた。聖書が語る福音の中心は、やはりキリストの十字架であり、その十字架の死にどんな意味があるのか、十字架で死なれたイエスは何故死なれたのか・・・等など、すでに二回の集会で心に留めて今朝の礼拝を迎えている。今朝はその十字架の出来事そのものに目を留めてみたい。主イエスの十字架のすぐ近くに二人の犯罪人がいた。彼らもまた十字架につけられ、イエスと同じ苦しみを味わっていたが、その内の一人は次第に心を動かされていた。そして自分の人生を振り返ってもいたのである。
1、11月になって第一週と第二週、伝道集会と関連して、主イエスに出会って救いに与った人、道端で物乞いをしていた盲人と取税人のかしらザアカイに目を留めた。彼らは自分からイエスに近づいた人であったが、十字架につけられた犯罪人たちは、無理やりイエスの近くに連れて来られて処刑されていた。彼らの意志は無視され、罪の刑罰として今や死を迎えていたのである。当然の報いとしても、その心の奥底ではどんな思いが行き交っていたのか、興味は尽きない。彼らは、イエスと引き換えに釈放されたバラバと一緒に暴動を起こして捕まっていたのか、あるいはもっと深刻な犯罪を犯して処刑されることになったのか、いずれにせよ刑の痛みに耐えなければならなかった。(32〜33節)
この二人が罪を悔いて刑に服していたとは考えられない。イエスと一緒に十字架につけられた時、人々の嘲りを聞きながら、「同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:39〜44)彼らも、「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と叫んでいた。十字架から降りて、自分たちも救ってくれ、そうしたら信じるから・・と嘲っていたのである。ところがイエスは、どんなに人々がののしり、あざけっても、十字架の痛みと苦しみを耐えておられた。そして「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と語られた。(34節)民衆ばかりか、指導者たちも兵士たちもイエスを嘲笑っていた。二人はそれら十字架の周りで起っていたことの、一番身近にいた目撃者だったのである。(35〜38節)
2、イエスが十字架につけられたのは朝の九時頃であった。それからどれ位時間が経過したであろうか。痛みに堪えていた犯罪人の一人は、悪口を言い続けた。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」(39節)ところがもう一人の犯罪人の心には、変化が生じていた。彼は、悪口を言い続ける仲間をたしなめた。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」(40節)彼も最初は一緒になって悪口を言っていたが、イエスの言葉と態度、そしてイエスについて知っていることを繋ぎ合わせると、自分たちとの大きな違いがはっきりと胸に迫ってきた。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(41節)自分たちの有罪性とイエスの無罪性、この違いをはっきり悟ったのである。
イエスの無罪性を悟った彼は、もはや迷うことなく、イエスを神とし、この方に自分を託すことを選んだ。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(42節)自分を含めて十字架の三人は死ぬとしても、主イエスは死をもって終わる方ではなく、この方に御国においても覚えていただきたい、再び来られる時まで心に留めていただきたい、それこそ私の望みです、喜びですと告白したのである。彼は息を引き取るそのギリギリのところで、はっきりとイエスを主、神が遣わされたキリスト、救い主と信じる信仰へと辿り着いていた。罪なき方が十字架につけられていること、それには大きな意味がある、罪の赦しまでは求められないとしても、今自分はこの方に頼りたい、と心から願ったのである。
3、主イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(43節)彼が望んだ「御国」を、イエスは「パラダイス」言い換えておられる。(※共同訳:「楽園」、口語訳、文語訳:「パラダイス」)「天国」また「天の御国」と考えてよい言葉であるが、その「天国」は必ずしも死後に行く所というわけではない。確かに死が迫っていて、死の後に心安らぐ場所としての「天国」が、大きな慰めとなるのは事実である。しかし、彼は、「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と宣告された。主は、「きょう」「今」、あなたはわたしとともにいる、その幸いの中にあると告げておられた。
彼は痛みや苦しみの極みの中で、主イエスとともにいる幸いを与えられたが、それは死を迎えたなら、一層確かなものとなる幸いであった。「パラダイス」「御国」また「天国」とは、主イエスがイエスを信じる者と共にいて下さる所であり、それは今の世にあっても、死後の世にあっても、決して揺るがされることのない幸いの場所である。その幸いは、肉体の死後に、完全なものとなるものであって、その救いに入るか入れないか、それを分けるのは唯一つ、イエスを信じる信仰なのである。イエスの十字架を最も近くで見ていた者、イエスが十字架で語られた言葉を聞いていた者、その二人の犯罪人たちはそれぞれ違う結論を出していた。その違いは一体何なのであろうか。肉体の死に直面しつつ、真の生に導き入れられる者と裁きとしての死に至る者、この両者の違いが浮かび上がるのである。
<結び> 主イエスと一緒に十字架につけられていた二人は、生と死が紙一重で折り重なっている状態で、苦しみを耐えていた。まだ生きてはいても死が迫るという極限にあった。私たちの日常はそこまでとは思えないが、意外とギリギリのところで生きているということはないだろうか。生きてはいても死んでいるかのようであったり、死んでいるようであっても生きているとか・・・。現代社会では、本当に生きているという人生を送るのは難しくさえある。この二人の犯罪人の姿は、私たちにどちらの犯罪人があなたですか・・?と問い掛けているようである。イエスに対して、最後まで嘲るのか、それともイエスを頼って自分の罪を悔い改めるのか・・?
十字架につけられた「犯罪人」は「強盗ども」であった。しかしルカはあえて「犯罪人」と記し、全ての人が神の前に罪あること、それ故に全ての人が、肉体の死に及んで、イエスをなおののしるのか、それともイエスを信じるのかを問い掛けた。そして罪を悔い改めるのに、生きている限りもう遅過ぎることはないと告げている。もちろん早過ぎることもなく、全ての人にとって「きょう」こそが救いの日である。本当の意味で生と死を分けるもの、それはイエスに対する信仰である。この方に「私を思い出してください、私を覚えていてください」と告白し、「あなたはきょう、わたしとパラダイスにいます」と語り掛けていただくことこそ救いであり、真の幸いである。苦しみの中で安らぐことの幸い、そして死後には完全となる幸いを必ずやいただきたいものである。
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