エルサレムに近いエリコの町で、道端で物乞いをしていた盲人が癒され、救いへと招き入れられた。イエスにあわれみを求めた彼は、目が見えるようになってイエスに従った。同じエリコの町に、ザアカイという取税人のかしらがいた。彼もまたイエスがこの町に来られたと知って、イエスにお会いしたい、それは無理としても、一目見たいものだ・・・と群集のいる所へと向かった。イエスのもとに近づくのに、彼は盲人とは違って何不自由しなかった。ところがその願いを阻む群集がそこに立ちはだかっていたのである。(1〜3節)
1、「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群集のため見ることができなかった。」背が低いということは、確かに遠くのもの、前のものをみるのに不利なことが多い。それだけなら前に進ませてもらえば問題は解決する。しかしこの時、群集はそれを許さず、ザアカイの行く手を遮った。彼の思いを受け留め、彼のため道を開こうとした人はいなかった。彼は人々に無視され、疎外されていた。そのことで心痛める日々を送っていたと想像できる。しかし、それは彼自身に問題があったことも見落とすことはできなかった。
「ザアカイ」という名は、「清い人」「義しい人」を意味するユダヤ人の名前である。両親は「神を敬う清い人になるように、義しく生きるように」と名づけた筈であった。ところが彼は、大人になって取税人となり、しかも金持ちになるため取税人を選んだのか、人々から恨まれるほどの金持ちになっていた。取税人の仕事は、ローマ帝国のために同胞から徴税することであり、しかも不正蓄財がまかり通る徴税を公然としていたので、同胞からは大いに嫌われていた。彼も例外ではなく、「取税人、罪人たち」と人々からは疎外されることになっていた。自業自得で、救い難い悪人と見られていたのである。
2、そんなザアカイが、その日は人々の妨げに怯むことなく、「イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。」(4節)その時を逃したら、次の機会がないと思えたのであろう。先回りして、木の上からならイエスを見られるのではないかと考えた。するとちょうど時が重なり、イエスは彼のいる木の下に来て、上を見上げ、「ザアカイ。急いで降りて来なさい」と言われた。それに続けて「きょうは、あなたの家に泊まることにしたあるから」と明言された。彼は、自分の名が呼ばれたことで驚くとともに、「あなたの家に泊まることにしてあるから」とまで言われ、その言葉に圧倒された。たちまちの内に、イエスを「主」また「神」と思い知らされたようである。(5節)
「ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」彼は迷うことなく、大喜びで、イエスを「主」として迎えた。それは。彼がイエスに「主よ」と呼びかけ、これまでの罪の悔い改めの告白をしていることに表れている。(6、8節)町の人々は皆、自分を無視し、心に掛けることなく通り過ぎていたが、イエスは名を呼んで下さり、家に泊まって下さった。この方こそ迎え入れるべき方、神にいます方、従うべきお方と信じたのである。彼は、自分の名を呼ばれた時、イエスの前に自分の全ては見通されていると悟ったのである。それで自然と罪の悔い改めの告白となった。裁きを恐れてではなく、罪ある自分に目を留めて下さった感謝に溢れていたのである。
3、町の人々は、イエスがザアカイの家に入って客となられたことをいぶかしんだ。「あの方は罪人のところに行って客となられた。」(7節)取税人や罪人と親しくされるイエスの行動は、人々を悩ませていたが、罪人の家に泊まるとは・・と大いに戸惑い、付き合い切れない、信用できないと呟いていたのである。けれども、ザアカイにとっては、全く分け隔てなく近づき、客となって泊まって下さるイエスの愛に、心を動かされたのである。その感謝と喜びは、迷うことのない悔い改めの実を結んでいた。財産の半分を貧しい人たちに施すこと、そして騙し取った物は四倍にして返すことは、十二分の償いであった。(参照:出エジプト22:1以下、レビ6:5、民数5:7他)
イエスは彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」(9〜10節)ザアカイにも、そして周りにいる人々にもはっきり分かるように、「きょう、救いがこの家に来ました」と言われた。救いが確かに成就したこと、主を迎え入れたザアカイの家に救いが成ったと宣言されたのである。彼もまた神に愛された人、信仰によるアブラハムの子であると、イエスご自身が認めて下さったのである。彼も救われるべき人、神が救おうとし、救いに入れられた人である。神が彼を救おうとされ、確実に救い、彼は感謝に溢れて悔い改めの実を結んだ。「きょう、あなたの家に泊まることにしてあるから」の言葉には、神ご自身のみ心、「きょう、あなたに救いを与える!」との迫りがあった。そして彼は、躊躇うことなく主を喜び迎えたのである。
<結び> 主イエスは、エルサレムに向かう途中、エリコの町で、物乞いをしていた盲人を救い、取税人のザアカイを救いに招き入れられた。二人とも自分から主を尋ねたようであったが、その実、イエスご自身が「失われた人を捜して救うため」に道を歩まれたのである。人々から見捨てられ、物乞いをするしかなった盲人も、金持ちであっても、疎外され嫌われていたザアカイも、自分では、その惨めな状況から逃れることはできないでいた。その惨めであわれな状況は、神を離れ、神に背いた人間の悲惨な姿そのものであった。神が捜し、尋ね、救いへと招いて下さらない限り、決して救いに到達することはない、そんな悲惨の中に全ての人は陥っているのである。(※ルカ15:1以下)
けれども、主イエスご自身が「失われた人を捜して救うために来たのです」と言い切って下さった。主イエスは私たち一人一人にもみ声を掛け、私たちの名を呼んで、救って下さるのである。「あなたの家に泊まることにしてあるから」という強引過ぎるほどの迫り方をもって、私たちも救われたのである。そして「きょう、あなたの家に救いが来ました」「救いが来た」「確かに救いが成就した」と宣言していて下さるのである。それぞれに、「ちょうど」という時があり、「きょう」という日が備えられていた。また備えられている。神が主イエスを遣わして、失われていた私たちをも捜して救って下さる。それで、「きょう」、私たちは、感謝をもって、主イエスに従うことができる。この救いに一人も漏れることなく入れていただき、真実な悔い改めと感謝に溢れて、地上の日々を歩ませていただきたいものである。
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