「だれでもわかる聖書 =キリスト教のABC=」と題して、今月は伝道集会を予定している。その集会を見据えて、福音書から主イエスに出会った人々に注目し、私たちもまた、心新たに主を仰ぎ見る信仰へと進ませていただきたい。
聖書は「世界のベストセラー」あるいは「永遠のベストセラー」と言われている。その割には内容について無理解や誤解の多い書物かもしれない。しかし私たちは、聖書自身が語るように、生きる真実な道しるべとして聖書を尊び、これに聞き従うのである。(詩篇 119:105)聖書全体はイエス・キリストの十字架を指し示し、十字架のみ業こそ中心であり、十字架に向かって歩まれた主イエスを見つめて読み進むなら、必ず救い主にお会いするからである。
1、エルサレムに向かって歩まれたイエスとその一行は、途中エリコの町を通られた。主イエスの地上の生涯はいよいよ終わりに近づいており、エルサレムで人々に捕らえられ、苦しめられるとの予告がなされていた。主は旅の途中、多くの教えを語り、人々の苦しみや痛みに手を差し伸べ、天のみ国に入るよう、「わたしを信じ、わたしに従いなさい」と繰り返し語られた。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と言われた主は、「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」と質問した役人には、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。・・そのうえで、わたしについて来なさい」と語っておられた。(17〜22節)
この役人が、非常に悲しんで主の前を去った時、金持ちばかりか誰もが救いに至ることの困難さを知った人々は、「それでは、だれが救われることができるでしょう」と、人にとっての救いの可能性を問いただした。主の答は「人にはできないが、神にはできるのです」であった。救われるために人が成すべきことを、神がさせて下さる、人が自力ではできないことを、神がさせて下さり、その結果救いが成るのである。「だれが救われることができるでしょう」との問には、救いについての絶望感が込めれていた。しかし主の答は、誰もが救われる、神が救いに至らせて下さるから・・・だったのである。その救いに与る一人の実例が、エリコの町で物乞いをしていた盲人であった。
2、彼が道端で物乞いをしていたその日、急に周りが騒がしくなった。いつもと様子が違うのを察知した彼は、行き交う群集に「これはいったい何事ですか、と尋ねた。」そして「ナザレのイエスがお通りになるのだ」と知らされると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。その声は大きくて騒がしく、先頭にいた人々、恐らく弟子たちがたしなめ、黙らせようとした。ところが彼は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。彼の叫びは執拗かつ熱烈で、一行に付きまとい、決して止めようとはしなかった。(マタイ20:29以下、マルコ10:46以下)
彼は「ナザレのイエス」と聞いて、「ダビデの子のイエスさま」「ダビデの子よ」と叫んだ。イエスを神が遣わした方、旧約聖書が約束するメシヤ、キリスト、救い主と認めて呼びかけていたのである。それまでにイエスがなさったことや教えられたことを伝え聞き、あのナザレのイエスは信ずべきお方、頼るべき方、神の恵みを取り次いで下さる方と信じた。それで、「私をあわれんでください」て叫び続けたのである。どんなに人々に咎められようと、今日、今、この機会を逃してはならないと叫んでいた。物乞いをしている時とは違っていた。私に目を留めて下さい。私をあわれんで救って下さいと懇願していた。彼の叫びは遂に届き、主イエスに呼ばれ、主イエスのそばへと連れて行かれた。
3、イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、彼は「主よ。目が見えるようになることです」と答えた。自分の人生において一番の問題は目が見えないこと、この自分では解決できないことを主イエスに解決していただきたい、と願ったのである。ナザレのイエスではなく、ダビデの子のイエスにしていただけること、すなわちイエスを神と信じるからこそ、この方にしていただけること、それは自分が抱えている最大の課題の解決であると信じて、あわれみを求めたのである。彼は自分の無力を悟っていた。自分に絶望していたので、助けは神であるイエスにのみあると懸命に叫んでいた。「私をあわれんでください」との求めは、神にのみ求めることのできる熱烈な叫びだったのである。
イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」盲人の目はたちどころに見えるようになり、彼は、「神をあがめながらイエスについて行った。」これを見ていた人々もみな「神を賛美した」のであった。周囲には大いなる驚きと興奮、また神への賛美があふれた。彼の信仰が人一倍強かったとか、彼の熱心が彼を救ったというのではなく、神に解決を求めたその心、神を頼るしかなかったその信仰が癒しに繋がったのである。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫んだその心、その信仰こそ、神のあわれみを受けるに相応しいものであり、主イエスはその叫びに答えておられたのである。
<結び> 聖書は一貫して天地を造られた神がおられること、その神の前に全ての人は罪を犯したために、空しい存在となっていると告げている。しかしまた、その神は罪人を救いに招いておられること、全ての人が救いの恵みに招かれていることを告げている。主イエスがこの地上を歩まれた時、神がご計画された救いを確かに実現するために歩まれ、十字架で身代わりの死を遂げるためエルサレムへと進まれたのである。その十字架への道すがら、エリコで盲人と出会い、彼を救いの恵みへと招き入れておられた。主はいつも「わたしの招きに応えるのはだれか」と尋ねつつ歩んでおられたわけである。そして、今日、私たちが聖書を開いて読む時、心を開いて私たちが応答するのを待っておられるのである。
今朝私たちは、エリコの町の盲人、道端で物乞いをしていた盲人に自分を重ねることができるだろうか。自分に絶望していた彼が、その日、その絶望から救って下さる方として、イエスに「私をあわれんでください」と叫んだのである。目の前の小さなこと、他の人が代わりにできることを頼むのではなく、神であるイエスさま以外にできないこと、目が見えるようになることを願った。そして彼は目が見えるようになって、イエスに従ったのであった。私たちも主イエスを神と信じ、「私をあわれんでください」と願い求めるなら、主は私たちを救いの恵みに招き入れ、豊かにあわれんで下さるのである。そして「あなたの信仰があなたを直したのです」と幸いな言葉を語りかけて下さる。今日、新たにこの言葉を主から聞いて、確かな信仰の歩みをさせていただきたいものである。
|
|