礼拝説教要旨(2007.10.28) 
あなたはむさぼってはならない          (出エジプト 20:17)
 「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」、「盗んではならない」「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と続いた十戒の後半は、最後に「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」との第十戒によって締めくくられる。第六戒以降、具体的な行動が戒められているのと違い、それらの違反行為の元になる心の思いそのものが、ここで戒められている。十戒は、個々の戒めをバラバラで心に留めるのではなく、全体として受け留め、聞き従うべきものであることが明らかとなる。

1、新改訳で「欲しがってはならない」と訳された言葉は、文語訳「貪るなかれ」、そして口語訳「むさぼってはならない」と訳されている。ただ単に「欲しがる」より、強烈に欲しがり、遂には奪い取ってしまうほどに欲しがる感情を意味する言葉で、第十戒は正しく、強欲な「むさぼる」心が戒められている。実際に心の中にあるむさぼりが制止されない時、やがて盗みとなり、その盗みを咎められて逆上し、人殺しに及ぶことはしばしばである。また自分の情欲を抑えきれずに姦淫の罪を犯すことや、隣人への憎しみや羨みの心が昂じて、隣人を貶める偽証へと走ることも、よくあることである。(ヤコブ1:14〜15)

 第六戒からの全ては、突き詰めれば人の心の中にある罪が問題である。その罪の現れが殺人であり、姦淫、盗み、偽証であるが、それらは元々、人の心にある「むさぼり」や「強欲」と結びついているもので、神は人が自分の心を治めること、心を制して生きることを求めておられるのである。この世で人の罪が露になるのは、ほとんどが犯罪となって現れる時である。しかし、神の目には犯罪となって現れる前に、心の中で戒めを破っているかが問われている。そのことを問うのがこの第十戒である。そしてこの戒めを守るなら、他の戒めを破ることを免れるのである。

2、「むさぼり」を戒める第十戒は、この世の生活において、全ての人が今ある生活で満ち足りること、今持っているもので満足することを求めている。(ウェストミンスター小教理問答80:「第十戒が求めている事は、私たち自身の状態に全く満足すること、それも、隣人とそのすべての所有物とに対して、正しい愛の気持ちをもって満足することです。」)そして今の生活に満足せず、隣人の生活を羨んだり、その幸せを妬んだりすることを禁じている。もし少しでも心を許すなら、たちまち隣人の持ち物を欲し、遂には盗み心を抱くのは、誰にでも起りうることである。戒めを与えられた神を恐れ、この戒めに聞き従おうとすることによって、私たちはこの戒めを守る道が開けるのである。

 戒めは、ぼんやりと「むさぼってはならない」と言うのではなく、「隣人の家を」とはっきる告げている。更に「隣人の妻」、そして「男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを」と、何に心を動かしてはならないかを明示している。人の愚かさ、あるいは強欲さが、隣人の最も大切なものを欲しがり、むさぼり、遂には奪い取ることにもなると警告する。申命記において、この十戒が再確認される時、その第十戒は「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない」となっている。隣人のもので決して侵してはならないもの、それは「隣人の妻」と言わねばならない事態があったと暗示している。現代社会にも通じる深刻な罪の現れではないだろうか。(申命記5:21)

3、「私たち自身の状態に全く満足すること」を、私たちはどのように理解し、果たしてそのように歩んでいるだろうかと問われる。もう少し余裕をもって生活したい・・と誰もが願うもの・・。先の参議院選挙で「生活が第一」と一つの争点となったが、先行きの不安は人々の心を大きく揺り動かす。大きな病院が閉鎖に追い込まれたり、夕張市のように財政破綻する自治体が出る状況で、今の生活に「全く満足する」のははなはだ難しい。それでも満足するには、視点が何よりも大切となる。何を見、何を聞き、何を拠り所としているか、生ける神を信じ、神を頼って生きているか、これこそが問われるのである。

 「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です」とパウロが語る時、それに続けて、神が人のいのちを支配していることを悟るよう勧めている。(テモテ第一6:6〜8) 主イエスが、この世の生活における必要の一切は、天の父が与えて下さると明言しておられるとおりである。(マタイ6:31〜34) 神こそ私たちの拠り所、拠り頼むべきお方なのである。(詩篇46:1〜3、50:15、68:19、73:28他)神を信じて満ち足りることを知る時、隣人の家を欲しがり、むさぼることから解き放たれる。これ以外に、私たちは満ち足りることはできないであろう。

<結び> 十戒は、前半は「神を愛せよ」と要約され、後半は「隣人を愛せよ」と要約される。(マタイ22:34〜40)しかし、この戒めを完全に守れるのかと問われるなら、完全には守れないことを認めなければならない。パウロは「むさぼってはならない」との戒めを知って、初めてむさぼりを知り、かえってむさぼる自分を思い知らされることを告白している。(ローマ7:7〜8) 十戒の一つ一つの戒めは、私たちに罪を明らかにし、神を愛せず、隣人を愛せない自分を知らしめ、神のもとに真心から立ち返るよう招くのである。そして神が備えられたキリストの十字架による救いへと導いて下さるのである。

 しかしまた、キリストの救いに与った者は、救いの恵みを感謝して、心から戒めに従う思いと、戒めを守る力が聖霊によって与えられていることも忘れてはならない。戒めによって、罪ある自分を見つめさせられ、キリストを仰ぐなら、そこに罪を赦された自分を見出すことができる。そして不思議にも心を低くして神に従い、神を愛し、隣人を愛する自分を発見させられるに違いない。その時私たちは神を心からほめたたえ、神に栄光を帰することが導かれる。十戒を心に刻んで、神を喜び、隣人との交わりを喜ぶ歩みが豊かにされるよう祈りたいものである。