礼拝説教要旨(2007.10.21) 
偽りの証言をしてはならない    (出エジプト 20:16)
 「あなたの父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫してはならない」、そして「盗んではならない」に続いて、人間の生き方に関する戒めは「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」である。人がこの世で生きる限り、たった一人で生きることは有り得ず、周りの人々との関わりがあり、言葉を介して繋がっているので、その言葉をどれだけ真実なものとしているか、それは私たちの思う以上に大切な事柄だからである。人に言葉を与えて下さった神は、その言葉を真実なものとして生きるよう要求しておられる。

1、「あなたは隣人について、偽証してはならない。」(口語訳)この戒めも、聞くべきは「あなた」、戒めを聞いた「私」である。あなたは自分の周りにいる人々との関係において、その隣人について、また隣人に対して、いつも真実に接し真実を語っているかと問われて、私たちはどのように答えるだろうか。口から出る言葉と心の中の思いとが一致しているだろうか。隣人の益を最優先しているのか、それとも自分のことを優先し、自分を守ることにのみ必死というはないだろうか。神は私たちの心の中を知っておられるのである。

 戒めはより厳密には、裁きの場で偽りの証人となって、隣人に対して不利となる証言をしてはならないと命じている。偽りの言葉を発すること、そのような証言者となることがないよう戒められている。あえて「隣人に対し」と言うのはなぜだろうか。敵対する者にはしてもよいが、「隣人」には決してしないようにと言うのだろうか。現実には「隣人」に対してさえ、人は偽りの証言を躊躇わない冷淡さ、醜さがあることを知らされる。そうした罪の大きさや醜さを見失わないために、あえて「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と命じられているのではないだろうか。

2、真実を語ることをせず、偽りを語って切り抜けるようとすることは、最初の罪がアダムとエバに入った時、人類に入り込んだことであった。アダムは、自分が神の命令を破ったことを素直に認めることはせず、「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」と答えて、エバと神ご自身の責任を訴えている。エバも「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです」と、自分の過ちより「蛇が・・」と訴えている。最も近くにいる者、最も愛すべき存在さえ、自分を守るためには利用する、そんな自己中心が人の罪の現実である。だからこそ戒めを心に刻んで歩むことが、私たちには必要なのである。

 聖書は人間の罪の事実を踏まえて、偽りの言葉を遠ざけるよう繰り返し教えている。偽りの証言が実際になされる現実を見越して、法廷においては、二人または三人の証言が一致することを要求している。(民数記35:30、申命記17:6、19:15)箴言においては、主を恐れ、悪を離れる者は、その口から真実を語る者であると、語る言葉を真実なものとするよう繰り返し勧められている。(箴言4:23〜24、6:16〜19他)そして主イエスは、心の中の悪い思いが口から出て来ると語って、心の思いを正すとともに、語る言葉と行いを正すことを教えておられる。(マタイ15:18〜20)

3、「偽りの証言をしてはならない」という戒めと関連して思い出すのは、国会における証人喚問の場面である。初めて「証人喚問」を知ったのはロッキード事件であった。(1976年2月)それ以後、政治にまつわるいろいろな疑惑が発覚する度に、国会で証人喚問がなされてきた。ところがほとんどが空しい繰り返しであった、そんな気がする。偽証罪で告発される人がいたり、「記憶にありません」と言い逃れたり、「真実のみを述べる」と宣誓したことが空々しく感じられることが繰り返された。絶対者の存在を認めないまま、人が真実を追究するのはほとんど不可能と思われる。心をご覧になる神がおられると知って、人はその神の前に遜ることを学ぶのである。

 けれども、神を知ったなら真実のみを語るかというと、人はそれでもなお頑なで失敗を繰り返す存在である。神を知り、神を恐れる者は、一層神に頼って、神の助けと導きに従って、真実を語る者と変えていただくことがなければ、とても真実を語れない。日常の生活の中で、常に正直で、偽りなく生きること、真実を語ること、そうしたことを心掛けることのないまま、いざ裁きの場で正直に語ることなど、やはり不可能である。誰に対しても真実で、正直に生きることは、今日の社会においても、ことの他大切なことである。主イエス・キリストを信じ、キリストと共に生かされている者にとって、言葉にも行いにも真実であることが大きな証しとなるのである。

<結び> 「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」と戒められているのは、語る言葉の真実を追い求めるとともに、隣人のことを心から愛し、尊び、その名誉を決して犯さないようにとの教えが込められている。「隣人」とは同胞に留まらず、他国人さえ含まれることを覚えて、自分が接する人全て、直接関わることのない人々をも心に掛けて、「隣人を愛する」ことを学び続けるよう求められている。全ての人が造り主なる神の目には尊い存在であり、神に愛されている事実をしっかり心に留めることがカギとなる。

 「・・・隣人を心広く尊敬すること、・・・彼らに関する好評を受け入れるに早く、悪評を認容するのに遅いこと、陰口を言う者、へつらう者、中傷する者に水をさすこと、・・・」(ウェストミンスター大教理問答144)自分にとっての身近な人だけが隣人なのではなく、他者の存在そのものを認め、神がその人の存在を良しとしておられるなら、私たちもそれに従うとの潔さが大切である。神は私たち一人一人を愛し、キリストを遣わして下さったのは、「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と約束されているからであり、私たちはその約束を信じたのである。(ヨハネ3:16〜17)私たちが救いに与ったのであるから、他の人々もまた必ず救いに与るに違いないと信じ、隣人を真実に愛する者とならせていただきたい。