十戒の第五戒「あなたの父と母を敬え」、第六戒「殺してはならない」、そして第七戒「姦淫してはならない」に続いて、第八戒は「盗んではならない」である。人間の生き方に関する戒めは、創造者なる神の存在と、神が人にいのちを与え、人を生かしておられることと切り離すことはできないもの。人のいのちの尊さは神に由来し、夫婦の絆の神聖さは神が結婚を定められたからである。そして「盗んではならない」と命じられるのは、一切の物の真の所有者は神ご自身だからである。周りの人々との関係で「盗んではならない」という以前に、私たちは、神の物を神の物として生きているかが問われている。
1、「汝、盗むなかれ」(文語訳)と命じられる時、いつの時代、どの国においても、余り説明の必要なしに、この戒めの意味することは理解される。しかし、意味は分かっても、守っているかどうかは全く別物のようである。盗みは常時横行し、誰もが悪と知っていながら、盗みを止めることは、はなはだ困難を極めているのが現実である。けれどもまた、世のほとんどの人は、他人の家に忍び込んで盗みを働いたことはない筈である。今後も、「泥棒」という犯罪を犯すこともないに違いない。それでも「盗んではならない」と命じられるのは何故なのだろうか。
「盗み」という犯罪が横行し、その盗みから殺人へと犯罪が凶悪化することが毎日のように報道されているが、私たちは、どこか自分は犯罪とは無縁と思っていることはないだろうか。これまでの戒めと同じように、具体的な罪を犯さない限り、自分は正しく生きていると考えている。人の物を無理やり取ってしまわない限り、私は盗んではいないと。けれども、「盗み」は全ての人にとって身近な罪であって、よほど心を配らなければ、容易に犯してしまう罪であることを神ご自身が知っておられるので、「盗んではならない」と戒めておられるのである。神は人に物を与え、所有することを良しとされたが、人は分を越えてその所有権を誇ることがあるからである。
2、一切の物の真の所有者は神ご自身、天と地を造られた方が万物の支配者であるとの理解が、私たち人間の生き方を決める。神の主権を認めないまま生きる時、私たちは自分中心に物事を理解し、自分にとって良かれと思うことを追求するのみとなる。自分を神の立場に置いて、全て自己中心に物事を推し進めるのにやっきとなる。自分の願いを叶えるのを最優先し、慎みをもって生きることや、隣人を思いやることは後回しとする。その挙句に、自分の欲を満たすため強引に「盗み」を働くことになる。しかし、「盗み」は強引なものばかりではなく、知らずして盗む「盗み」を全ての人は犯しているのである。
「盗み」は物を盗むことに留まらない。人間的には手際よく、しかも要領よく処理したとされることでも、神の目には「盗み」となることが多々あることを認めなければならない。すなわち、神の前に全く潔く生きること、これが何よりも尊いことである。心の内側を神に見られたとして、あらゆる領域に渡って、「盗んではならない」との戒めを聞かなければならない。金品を盗むことはもちろん、仕事における時間の浪費や不当な手段で利益を得ること等、実に多種多様な形で、この戒めは私たちの心に迫るのである。
3、「あなたは盗んではならない」と命じられているが、私たちは、なお他人事のように通り過ぎていないだろうか。いつも思うことであるが、日本の政治家たちの間で繰り返される「政治とカネ」の問題は根が深い。税金が無駄使いされ、「盗み」が底なしであるかの様相を見せている。領収書を使い回して政治資金を捻出するやら・・・。他方、貧富の格差が広がり、金目のものは何でも盗むということで、アルミ製の門扉を夜中に持ち去るやら、工事現場の鉄板や銅線を盗む等の犯罪が報道なされている。正当な商売さえ、今や不当な利益追求と紙一重となっている。自分は正しいと言い切れる人はいない、一人もいないと、私たちは心から告白すべきである。
「・・・自分の能力と他人の必要に応じて無償で与えまた貸すこと、この世の所有についての自己の判断・意志・感情に節度のあること・・・」これはウェストミンスター大教理問答の問141の答、第八戒で求められている義務の一部である。小教理問答は「私たち自身と他人との富や生活状態を正当に確保し、向上させること」と表現している。これを理解するに当たり、やはり主イエスの教えに従うことがカギとなる。万物の支配者にして所有者は生ける神、私たちの天の父である。父なる神が私たちの必要を満たして下さる。神への信頼こそ、満ち足りる心をもって生きる道を開くものである。他の人の姿を見て徒に心を騒がせるのではなく、また徒に批判するのではなく、自分自身がどれだけ神に愛され、恵みと祝福に満たされているかを知る人こそ、真に幸いな人である。(マタイ6:19〜34)
<結び> 「汝、盗むなかれ。」私たち自身が、はっきりとこの戒めを聞く者と成らせていただきたい。私は、やはり知らずして多くの「盗み」をしている自分を思い知らされる。知らずしてどころか、子どもの時からの自分を振り返ると、自覚して盗んだ記憶を消すことはできない。その他、隣人を愛し、その必要に「無償で与えまた貸す」ことを何度も躊躇ったことを思い出す。時間を浪費して、働くべきを働かなかったということは度々と反省するばかりである。戒めを満たしえない自分を知らされ、十字架の主イエス・キリストのもとに立ち返るほかないのである。しかし、だからこそキリストがおられること、罪の赦しを与えて下さる救い主がおられることが、私にとってこの上ない喜びであり、感謝である。
箴言の次の言葉を心に刻んで、これからの日々も歩ませていただきたい。「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富みも私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:7〜9)
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