十戒の後半は、第五戒から人がこの世で生きる上で心すべきこと、人間としての生き方に関する戒めである。先ず「あなたの父と母を敬え」と命じられ、第六戒の「殺してはならない」に繋がり、人のいのちの尊さを互いに認め合い、全ての人が神によって生かされている事実を悟るよう求められていた。そして第七戒、「姦淫してはならない」との戒めによって、人が生きて生活を営む場所、家庭における夫婦の在り方の根源に迫っている。
1、神がご自身のかたちに似せて、人を男と女とに創造された時、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。・・・」と命じておられた。人にいのちを与え、これを受け継いでゆく営みをアダムとエバに託された。神は一人の男と一人の女が結ばれ、「ふたりは一体となる」夫婦の関係を神聖なものとして定められたのであった。(創世記1:27〜28、2:24)最初の人、アダムとエバは神との親しい交わりとともに夫婦の親しい交わりの中で生かされていた。神を愛し、互いに愛し合う生活が営まれていた。けれども罪が入り、神との関係のみならず、人と人との関係にも溝が生じた時、カインの子孫において、「レメクはふたりの妻をめとった」との事実が生じるのであった。(創世記4:19)
人がいのちの尊さを悟り、そのいのちを育む場所として家庭が備えられていた。その家庭における夫婦の関係は、神が定めて下さった神聖なものとの理解が先ず大切である。その「神聖さ」のゆえに「姦淫してはならない」(文語訳:「汝、姦淫するなかれ。」)と命じられている。「姦淫」とは、既婚者が自分の配偶者以外の異性と交わること、より厳密には、既婚者が自分の配偶者以外の既婚の異性と性的関係を持つこととされる。(※姦通罪)しかし、厳密に規定すればするほど、結婚している者は「姦淫」の罪を犯さないですむ方法を探り、「離縁状」を出せば離婚が可能となるという道を開くのであった。
2、既婚者の「姦淫」と、未婚者の「淫行」や「不品行」とは、確かに区別されるべきであろう。けれども、第七戒において、「姦淫してはならない」と戒められていることは、神が定められた結婚を神聖なものとして守ること、人間として男と女に造られたその本来の役割を尊ぶこと、それは、既婚、未婚を問わず、結婚と男女の秩序を歪める全ての事柄について及んでいる。神は、すでに結婚している者にも、結婚していない者にも等しく、結婚を尊び、夫婦の絆の神聖性を理解することを求めておられる。「姦淫してはならい。互いに心から愛し合うことを夫婦の間で学び、これを実践しなさい」と。
この戒めも神によって生かされている人間にとって、永遠不変のもの、全世界の全人類に求められているものであるが、これに聞き従うには、神の救いの恵みを受けた者が、感謝をもって従うことが肝心である。従えるから従うのではなく、従えない自分を見出し、神に頼って従う者と変えられるよう祈りをもってすること、その視点を見失ってはならない。実際この戒めにおいても、神は私たち人間の心を見ておられるからである。心の思いの清さ、潔さ、これを見ておられるとするなら、誰一人、神の前に自分を正しいとすることはできないのである。(※サムエル第一16:7)
3、「『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。・・・」と主イエスは語られた。(マタイ5:27以下) 人々の目に明らかになる以前に、神の目に姦淫の罪は明白であるという。この指摘は多くの人に、罪に対する神の裁きを逃れる人はいない・・、裁きが必ず下るとするなら、それは恐ろしいことと実感させる。「殺してはならない」との戒めと同じく、「姦淫してはならない」との戒めも、主イエスの教えに触れると、罪なき人は一人もいないことを思い知らされる。罪の赦しなしに誰も心の平安を得ることはできない、と主は言われるのである。
この戒めほど、私たちの心が神によって知られており、探られていると感じるのは私だけだろうか。「父と母を敬え」との戒めは、全ての人が幼い時から心に留めて生きるよう求められているとすれば、「姦淫してはならない」との戒めは、ある程度分別のつく年齢になって理解できる大切な戒めという側面がある。それ故に、家庭の大切さ、家族の絆の尊さを家族全体で経験することが大切で、そのために私たち自身が神を頼り、主イエスの十字架のみ業を信じ、聖霊の導きに従うことが必要となる。神の憐れみがなければ、私たちの地上の歩みは一歩たりとも前に進むことは有り得ず、神の助けなしに今を生きることは不可能と実感するからである。
<結び> 「姦淫の罪」について、旧約聖書は神の民が異教の神々に走ることと結び付けている。新約聖書では夫婦の関係をキリストと教会の関係として捉え、夫と妻の絆の神聖性を明らかにしている。旧約では神に背いて、神から離れた民、姦淫の罪を犯した民に向かって、神は立ち返るよう招き、交わりの回復の約束を繰り返しておられる。その交わりの完全な回復のために、キリストの十字架の贖いが成し遂げられた。姦淫の罪さえ、神はキリストのみ業によって赦そうとされたのである。今やキリストを信じる者は、神の赦しを得て、神との交わりの中にある者として、自分の生き方の全てを神の導きに委ねることができるのである。(ホセア2:13、9:1、14:1〜9、エペソ5:22〜33)
しかし、私たちを取り囲む現実の社会は、主イエスが語られたように「悪い、姦淫の時代」である。(マタイ12:39、16:4)世はますます「姦淫の時代」であることが誇らしげであるかのように、結婚の秩序は軽んじられている。生きにくい時代となり、人の心は荒み、人を愛することが難しくなってしまった。だからこそ、私たちは改めて神の戒めを心に留め、戒めに聞き従い、神を愛し、隣人を愛する生き方を証しするよう求められている。聖霊の力によって、不可能を可能として下さることを信じて、戒めに聞き従う者とさせていただこうではないか!
|
|