十戒の前半は、神の救いの恵みを受けた民こそが神を心から敬い、真実な神礼拝に生きるようにとの戒め、そして第五戒からは人がこの世で生きる上で心すべきこと、人間としての生き方に関する神からの戒めである。先ずは「あなたの父と母を敬え」と命じられ、第六戒の「殺してはならない」に繋がっている。以下「・・・・してはならない」との禁止命令が続くが、その内容は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との戒めに通じる、人としての生き方の普遍的な教えそのものである。
1、神の存在を認めない世界観では、一切の事物の存在は偶然によることになり、物事の意味を見出すのは困難となる・・・と前回触れた。その最大の課題は人の存在そのものであり、人のいのちの始まりについてである。歴史上のある時期にたまたま存在し、やがてその一生を終え、この世を去るのみであるなら、誰一人として「いのちの尊さ」を本気で問うことは不可能となる。何とかして「いのちは尊い」と教えようとしても、「何故?」との問に答えることはできない。世の中の価値観が多様化し、生き方が多様になればなるほど、「いのちの尊さ」に関しては曖昧な答えしかできなくなるのである。
天地の造り主なる神の存在を認めようが認めまいが、人間一人一人を尊い存在と認めるのは、時代を越え、世界のどこの国でも、どの民族でもほぼ同じであろう。けれども神を認めない限り、人の価値観は相対的となって、人のいのちの価値も軽重を測られるようになる。しかし、人を造られた神の目には、人の価値に軽重や卑賤は有り得ず、全ての人が尊い存在である。私たちは、自分が神の目に尊い存在であることを知って喜ぶのに留まらず、全ての人が尊く、神に愛されている事実を知ることが大切となる。もしこの視点がなければ、私たちが神に愛され、生かされていることを感謝するとしても、それは上辺のこと、自分本位のことでしかなくなってしまう。(※イザヤ43:4)
2、「殺してはならない」との戒めは、より正確に「あなたは、人を殺してはならない」との命令である。(「殺す」:ラーツアハ) 「人殺し」が禁じられる根拠は、神が人を神のかたちに造られたからであり、神が人にいのちの息を吹き込まれたからであった。(創世記1:27、2:7) もし人が他の人のいのちを殺めたなら、その血の価を神が要求されるとまで宣告されている。(創世記9:5〜6)「いのちの尊さ」の根拠は「神が人を造られた」ことにあり、神が人のいのちの所有者、支配者なのである。人は神からいのちを託され、この地上にあって生かされていることになる。
託されたいのち、生かされているいのちを認めるのは、通常難しさを伴っている。多くの人が、健康で、物質的にも何不自由しない生活を願い、その願いをほぼ叶えられているからである。そのためかえって人間にとっての本当の幸せを見失うのである。しばしば体調を崩す人、また大病を経験した人ほど「生かされている幸い」に目が開かれるという事実がある。私たちにとって、本当の幸せを知り、その幸せを得て生きることこそ、神が私たち一人一人に願っていて下さることである。だからこそ「殺してはならない」と命じ、自分を含め、他の人のいのちを尊ぶ者として生きるよう戒めておられる。生きているのは生かされているから・・・と。
3、「汝、殺すなかれ。」文語訳は戒めを聞くべきは「あなた」であることが明確に訳されている。(※口語訳も)命令形で語られる時、その命令を聞くべきは「私」である。戒めは普遍的重要性を持っているが、だからと言って、誰か別の人に告げられていること・・・と聞き流してはならない。主イエスはこの戒めに関して、その意味するところは、「人を殺さなければそれで良しとされるわけではない」と語られた。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。・・・」(マタイ5:21〜26) 神は私たちの心の内を見ておられる。他の人に対する心の思いさえもこの戒めは問うていると、主は言われたのである。
この戒めに心から従うことができたら、どんなにか幸い・・・と思う。主イエスは兄弟に対して腹を立てることのほか、兄弟に蔑みの言葉を発することにも心を配るように、もし兄弟に恨まれていることがあるなら、神を礼拝する前に先ず仲直りするように、利害の対立する者がいるなら、早く仲良くなることをしなさいと教えておられる。そこには、対立する者との抗争を勧める視点は一切なく、正しく罪の赦しのために十字架へと向かわれた、主イエスのお姿が浮かび上がるのである。罪の赦し、交わりの回復こそが人には必要なこと、神と人との間のみならず、人と人との間にあっても、愛の交わりこそが何よりも尊いものなのである。
<結び> 「あなたは、人殺しをしてはならない」と理解することが、この第六戒の中心点である。けれども、旧約聖書には神ご自身が、背く者、イスラエルに敵対する民を滅ぼせと命じた事実もあるので、私たちはどうすればよいのかと戸惑いも隠せない。いのちにはいのちをと死をもって償うべき刑罰も明示されている。(民数記35:16以下) しかし、それらは神が直接命じられた個別の事例である。あくまでも「いのちの尊さ」の普遍性は揺るがされてはならない。主イエス・キリストの十字架のみ業を経た時代に生きる私たちにとっては、一層いのちを尊ぶことが大切となる。「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つため」に、主イエスは十字架で死なれたからである。(ヨハネ3:16、※エゼキエル33:10〜20)
人類の歴史上、最初の人殺しはカインによる弟アベル殺しであった。以後人殺しはエスカレートし、人類は戦争と殺戮を止めようとせず今日に至っている。自分から愛そうとするより、相手を疑い、憎しみを膨らませ、心を閉ざそうとしている。「殺してはならない」との戒めは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との戒めであることを知って、自分から相手に心を開くことができるように、主によって変えていただこうではないか。人と人、民と民、そして国と国の関係においても、愛し合い、赦し合うことこそ導かれるよう祈りをもって歩みたい!!(※世界の各地で戦争が繰り返され、人を殺すことを「正義」と主張されるのは悲しいこと。いかなる人殺しもしないと素直に心に決めたい!)
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