十戒の第一から第四の戒めは、天地を造られた唯一の神だけを礼拝せよとの第一戒に関連するものである。神の救いの恵みを受けた民こそが、真実な神礼拝に生きるようにと命じられていた。第五戒からは人がこの世で生きる上で心すべきこと、人間としての生き方に関する神からの戒めとなる。それと同時に、「あなたの父と母を敬え」との教えは、神を敬い、また生きておられる神を真に恐れてこそ聞き従うことができる戒めである。
1、神の存在を認めない世界観とは、果たしてどのようなものであるか、日頃考えることがあるだろうか。この広い宇宙に、何かしら超越する存在があり、人の思いの及ばないことがあるに違いない・・・とは認めるものの、一切の事物の存在は偶然によることとなり、物事の意味を見出すのは困難となるのである。人は歴史上のある時期にたまたま存在し、やがてその一生を終え、この世を去るのみ・・・。それで良しとする人は多いのかも知れない。けれども聖書は「初めに、神が天と地を創造した」と語り、この神が「光があれ」と仰せられ、一連の天地創造のみ業を成し遂げられたと記すのである。
(※創世記1:1以下)
創造の業の頂点、最終段階が人間の創造であった。人は神の「かたち」に似せて造られ、男と女が造られ、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」と命じられた。神は最初の人、アダムとエバに地を治める全権を委ねられたのである。その中には結婚の秩序も含まれ、やがて子どもが生まれ、人類が地に広まる時に、人が神を敬い、神との親しい交わりの中で生きるように定められていた。その幸いは親から子へ、子から孫へと受け継がれる。その幸いの継承のために、主なる神は再確認するように「あなたの父と母を敬え」との戒めを明示されるのである。
2、聖書の世界観、そして人間観において、結婚の神聖性と家族の絆の深さは、神と人間との関係を表すものとして特に大切なものとされている。神が人に求めておられる第一としての「服従」あるいは「従順」は、隷従や盲従ではなく、真実な愛に基づく「服従」である。それは家庭において、夫婦と親子の関係の中で愛に包まれて身に着けられ、育まれるというのである。正しくそのような視点で、「あなたの父と母を敬え」と言われるのであり、そのためには先ず、親自身が神を心から敬う姿を見せることがなければ、子は「敬う」ことが何であるかを知ることは不可能となるのである。
親自身が真実に神を敬う生活をしている中で、子は父と母を敬うことを学び、神を敬い、神に服従することの幸いを知ることができる。それは単なる理想に過ぎないと言う人が多いかもしれない。けれども、子は生きることのほとんど全てを親子関係の中で身に着けるのである。今日その親子関係が崩れ、社会全体が苦悩している現実がある。神なしの社会の中で、そして家族の関係が壊れた状況で、子どもたちの置かれている実情は痛ましいばかりである。神はご自身の民に向かって、この戒めは「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである」と約束された。この約束は普遍的なものである。神が定められた秩序こそ、人はこれを尊ぶべきものである。神の民はこの戒めに従って、この世で証しする務めを担っているのである。
3、「敬う」という言葉は、「敬う」「重んじる」「崇める」「ほめたたえる」とも訳される言葉で、その意味を強調する用法で語られている。それだけ両親の存在が神の存在と結びついた重要性のあることが暗示されている。しかし、そのことをもって、親が権威を振りかざしてよいわけではない。むしろ誰しもが親となるわけではなく、かえって全ての人は親から生まれ、今この世に存在している事実を謙虚に覚えることが大事である。造り主なる神がおられ、人間が生かされていること、自分も生かされていること、そのことを心に留めて、両親ばかりか周りの人々の存在を尊び、自分より年上の方には格別の敬意を払うことが求められる。神はそのように心を低くして生きる者を祝福して下さるのである。(※「敬え」:カーベード)
以前、ダビデ・マーチン先生より、「子どもは両親より愛されて、愛を学ぶでしょ・・。そして両親が神を愛しているのを見て、神を愛することを学びます。だから、親から愛されなければ、人は愛することを学べないでしょう・・・」という趣旨の教えを聞いたことがある。ドキリ!としたのを今も忘れることはできない。「あなたの父と母を敬え」との戒めも同じではないか・・・とその時実感した。神の民、クリスチャンとして生きる上で、だれもが心に留めるべきこととして、自分自身が神を敬い、両親を敬うこと、他の人々を愛し、尊ぶこと、これが第一歩である。その生き方が地の塩、世の光として輝くことが大切となるのである。
<結び> この第五戒に関しても、主イエスが歩まれた当時、人々の間で全く身勝手な解釈がなされていた。神殿への供え物の規定や誓いの規定などが加えられるに連れて、「だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない」と言う教えを広めていたのである。十戒よりも後から定められた人の教えを優先し、両親を尊び、その必要のために手を差し伸べるべき時に、「供え物」を優先させて良いと言うのである。しかし、それは本末転倒であった。(マタイ15:1〜20)
使徒パウロは「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。『あなたの父と母を敬え。』これは第一の戒めであり、約束の伴ったものです。すなわち、『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束です」と語り、それに続けて「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」と語っている。(エペソ6:1〜4)聖書の教え、神の教えはどちらか一方に偏っているのではない。子の立場であっても、親の立場であっても、聞くべきは神の教えである。神に心から服従する者、神の教えに聞き従う者が神から祝福を受けるのである。この地上にあって祝福を受け、天のみ国においても豊かな祝福を受ける幸いが説かれているのである。聞く耳のある者とならせていただきたい!
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