イスラエルの民をエジプトの国、奴隷の家から導き出された神は、「わたしは、あなたの神、主である」と語り、「わたしだけを礼拝せよ」と命じておられた。形だけの礼拝になったり、口先だけの信仰にならないよう、「主の御名を、みだりに唱えてはならない」と戒め、真心から服従する者に祝福を約束しておられた。そして第四戒、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・・」を命じられた。
1、「安息日」とはその名のとおり、「休む日」、通常の働きを「止める日」のことである。週のどの日をその日とするかについて、十戒は「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし、七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない」と明らかにしている。そして、その根拠は主なる神による天地創造のみ業にあることを明らかにされた。天と地を造られた神がおられることを民が認めること、神の存在とそのみ業を思ってこの戒めを守ることが大切・・・、とされている。(※安息日:ヨーム・ハッシャッバース、休む:シャーバス))
七日をもって一週とする暦は、ほぼ世界中で当り前のように使用しているが、その根拠についていろいろな考えがあるという。私たちにとっては天地創造の出来事こそ、その根拠であると信じているが、聖書をその根拠としたくない多くの人々にとっては認めたくないことのようである。いずれにせよ、出エジプトを経験した民は、七日を一周とする習慣の中で生活し、七日目を休むようにと、すでに具体的に訓練されながら歩んでいた。神からの食糧の満たしとして与えられていたマナは、六日目には二倍の量を集め、七日目は集めるのを休むよう命じられていた。民は六日働いて一日休むこと教えられていたのである。
(出エジプト16:13〜31)
2、安息日に関しても、十戒によって初めて主のみ心が明らかにされたわけではなく、人間にとっては始めから守るべきこと、普遍的な戒めとして「安息日」は定められていたと言える。最初の時点で神に背いた人間にとっては、何が良いことで神に喜ばれることであるか、よく分からなくなっており、神は折々に正しい道を示しておられた。特に神の民イスラエルをとおして、神への服従の道が明らかにされていたのである。しかし民は、自分の考えを止めようとせず、七日目にもマナを集めようとして集められず、失敗を繰り返しながら、この第四戒をはっきりと示されたのであった。
人がこの世にあって生きる上で、「六日間働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない」と明言されていることを踏まえて、七日目を「安息日」、「主の安息」とすること、「聖なる日」とすること、このことが大事である。神によって造られた人間にとって、神と人との関係が正しく保たれることが幸せの源であることを、週毎の生活の中で体験するため、実際にその幸いを得て歩むためにこの戒めが明らかにされている。七日の内の一日を「聖なる日」とすることは、一日をただ特別の日とするのではなく、その一日を神のために取り分けること、神の聖さにつながる日として覚えることが求められた。その点で「神礼拝の日」とするのが相応しいのである。
3、私たちは今日、週の七日目ではなく、「週の初めの日」を「安息日」とし、公の神礼拝の日としている。それはキリストの復活の事実を信じるからであり、キリストの復活が「週の初めの日」にあったからである。従って「安息日」に関しても、戒めを守ること、これに従おうとすることにおいて、徒に文字に拘るかどうかが問題となる。七日目なのか、一日目なのか・・・。どうすることが「聖なる日」とすることになるのか・・・。戒めを守り切れない人間の弱さを認めることによって、キリストの十字架の贖い、身代わりの死に行き着くとき、私たちは、主が「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」(マルコ 2:27〜28)と語られた意味を知ることができる。人が神に向かう日、神に礼拝をささげる日として「安息日を覚える」ことが肝心である・・・と。
神礼拝のために一日を「聖なる日」とするのは、神が人に休みの必要なことを知っておられるからであり、人に対して、無理にでも休みを与えようとしておられると考えるのは、果たして考え過ぎであろうか。マナ収集の出来事を見るとき、働くべき六日間において、多く集め過ぎた者の分は、翌日腐って何の役にも立たなかった。しかし六日目に二日分を取り集めても、それは腐らずに翌日の必要は満たされた。神が人のために命じ、人のために成して下さることには誤りはない。人が神の戒めに従うことこそ幸いへの道である。世界中の全ての人が一週の一日を「安息日として覚える」のは、多くの人が疲れを感じている現代においても真に幸いへの道と言える。
<結び> この戒めも、実際に守るのにイスラエルの民は多くの困難を経験した。その困難は現在にも及んでいる。もちろん安息日の禁止事項と罰が明らかにされていた。(出エジプト35:2〜3、民数記15:32〜36等)しかし、守ろうとする余りの逸脱が起こり、同時に守れるように意味のすり替えをするのである。主イエスが安息日をめぐる論争や、また様々の清めのしきたりをめぐって繰り返し指摘されたのは、神のことばを無にして、人の教え優先させる誤りであった。(マタイ15:1〜9、マルコ7:6〜13)「安息日を厳守しよう」とする熱心は尊いとしても、厳守できない弱さを認めることによって、キリストの贖いの必要を知り、その恵みに与ることこそ尊い。その時「安息日を覚えて、これを聖なる日とさせて下さい」との祈りが導かれるに違いない。
私たちにとっても、昔のイスラエルの民にとっても、救いの恵みを受けた者たちが、安息日を覚え、主の前に出て静まり、主なる神との交わりを喜ぶこと、救いのみ業を賛美し、主の前に心を注ぎ出して祈ること、そのような礼拝を神ご自身が待っておられる。主の日の礼拝をささげるに当たって、心を注ぎ出してこの場に連なることが喜びとなるように祈りたい。そして造り主なる神を心から賛美し、救い主キリストを遣わして下さった神を喜び、キリストを信じ、キリストによって新しくされた者としてこの世で生かしていただきたいものである。
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