礼拝説教要旨(2007.09.09) 
主の御名をみだりに唱えてはならない。     (出エジプト 20:7)
 十戒の第一戒は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」第二戒は「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」そして第三戒は、「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト20:7)第一戒から第三戒までは特に密接に繋がっていて、神がご自身の民に、「ただわたしだけを神とし、真心からの礼拝をささげるように・・・」と命じておられた。

1、天と地を造られた真の神は唯一であること、この神以外のものを礼拝することがどれだけ空しいことであるか、神の栄光を形ある物に帰するなど、決してあってはならないのである。けれども出エジプトの恵みを受けた民でさえ、しかも戒めを示された直後に金の子牛を造って拝むほど、人の心は神から離れ易いものであった。それは残念というより、悲しいというべき弱さである。唯一の神だけを礼拝せよと命じられ、人の目に神の形は見えなくても、霊なる神を神として敬うことこそ追い求めよ、そうする者には「恵みを千代にまで施すからである」とまで、主なる神は約束しておられた。

 けれども神は人の弱さをよくよく知っておられた。神礼拝そのものが真に神礼拝であるかどうか、礼拝と言いつつ礼拝でない行為が容易に入り込むのを神ご自身は知っておられたのである。「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」この第三戒は、礼拝が真に礼拝行為であるように、知らずして単なる儀式になることのないようにとの強い警告である。実際に近隣の民の間には神々が多数存在し、いずれの神がより強いか、神々の名によって争いをし、神の名を呪文として唱える異教は数知れなかったからである。

2、神の名を唱えて助けを呼ぶ、しかも徒に唱える異教はいつの時代も後を絶たない。(※「古代近東においては、・・・・・・・神の名が呪文の中で著しい役割を演じており、古代近東文学では呪文のテキストが重要な位置を占めている。呪文とは、人間の都合のために神を用いることであり、そこには根本秩序が転倒された人間の御都合主義、傲慢が見られる。」「新聖書注解:旧約」第一巻、359頁)イスラエルをエジプトから導き出した神は、わたしだけが真の神、主であると語り、神と人との関係が正しく保たれることが人間にとっての幸せの源であると言明しておられる。歴史を支配しておられる神の存在を認めること、これがカギである。

 「みだりに」と訳された言葉(シャーウ)は、「やかましい音をたてる」との動詞(シャーアー)からの言葉で、悪や偽り、空しいことをすることと結びついている。自分本位に、自分の益だけを求めてする祈りや礼拝が、どれだけ神ご自身を悲しませることであるか、いや神を怒らせ、裁きを招くことと知るようにと戒めている。それは御名を辱めることだからである。私たちの礼拝、祈りや賛美は果たして主のみ心に叶っているのだろうか。大いに自己吟味を迫られる。神を礼拝していながら、神が良しとはされない、悲しまれることを繰り返すとは、そんな空しいことを決してしないようにしたいものである。

3、私たちにとって大切なことは、公の礼拝においてささげる祈りや賛美、また一人一人が日々祈ることや賛美することにおいて、どれだけ生きておられる主を神と崇め、神に信頼しているかどうかである。主イエスは祈りに関して次のように教えておられる。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。・・・」また、「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。・・・」と語られた。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」(マタイ6:5〜8)神に信頼すればこそ祈りは導かれるというのである。

 私たちはそこまで信頼して祈っているだろうか。信じて祈り続けてきたであろうか。第三戒を心に刻み直し、これまで以上に、神への信頼をもって祈る者としていただきたい。公の礼拝において、個人の礼拝において、父なる神は、私たちの祈りに答えようとしていて下さるとは、何と幸いなことであろう。歴史を支配し、その上で私たちの祈りを聞いて下さる神がおられるので、その神に「父よ」と呼ぶ祈りができると、「主の祈り」を教えて下さっていたのである。一層祈りを熱くする者としていただきたい。

<結び> ところで戒めに聞き従う上で心すべきことは、戒めを守ろうとする余り、その言葉の表面だけに拘る罠に陥らないことである。この第三戒に関して教訓的なことは、やがて旧約のイスラエルの民の歩みにおいて、聖書朗読において「神の名」は発音することさえ許されないことになり、結果的に正確な発音はほとんど失われたことである。(※レビ24:16の解釈と結びついている。)今日では、「ヤハウェ」または「ヤーウェ」が正しいとされているものの、「神の名」に関して、新改訳聖書で太字にて「主」と訳される四文字をめぐっていろいろの解釈がなされてきた。(※文語訳では英語訳の「Jehovah」を「エホバ」と訳したが、この発音は無理があり、宗教改革期から広まった奇妙な誤読として退けられている。)

 私たちは礼拝を真実に神にささげるため、祈りにおいても、賛美においても、神ご自身を心から呼び求めたい。自分が喜ぶためではなく、正しく神の栄光が顕わされることを願い、隣人を愛し、隣人に仕えることを喜びとする者となることを願うまでに私たちが導かれること、神はそのことを待ち望み、期待していて下さるのである。私たちの心が砕かれることを神は願っておられるのである。(詩篇51:16〜17)神を喜び、互いに愛し合うことを喜ぶ教会となること、このことを神は私たちに望んでおられる。これがこの世にあって私たちの務めであり、神の戒めに従って真の礼拝者となることではないだろうか。
(※参照コリント第一13:1以下)