礼拝説教要旨(2007.09.02) 
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない 
                                   (出エジプト 20:3〜6)
 先月の暗唱聖句、十戒の第一戒「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」に続いて、9月は「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」とした。(出エジプト20:4)第一戒と密接に繋がる第二戒である。しばらくこの十戒を、神がご自身の民に求めておられること、私たちが神に服従する肝心な教えとして学ぶこととする。但し、エジプトの国、奴隷の家から連れ出された民が、この戒めに聞き従うようにと告げられていた事実を見落とすことなく学びたい。罪ある者には守り得ない義の規準でありつつ、それを守れるように新しい歩みへと民は導かれていた。それはキリストにあって生きる者の生き方そのものなのである。

1、第一戒は真の神は唯一であることの明言であった。この事実、この真理を神ご自身が先ず主張しておられるわけであるが、単純にそれこそ神が神であられることを人間が認めるべきことであって、もし人がそこから歩み始めるなら、世界中の全てのことが、全く不思議と思えるほど順調に進むと思えるほどである。唯一の神が人を造り、生かしておられること、世界を治めておられること、このことの故にこの宇宙全体が秩序あるものとして存在していることは、冷静になって考えるならば多くの人が認められることである。目に見えるものが全てではなく、見えないものにこそ心を向けるべきこと、神は目に見えずとも、造り主なる神の存在こそ、一切の事物の始まりと知るなら、私たち人間の生き方に慎みが生まれ、物事の意味を探る心と態度が導かれるからである。

 けれども最初の人アダムは、神の戒めに背き、自らを神とする生き方を選んだ。それは神との親しい交わりを断つこととなり、神がおられ、神が全てを見守っていて下さっても、そのことに気付かず、神なしで生きることを良しとする道へと踏み出した。最初の時点で、それでも神の助けのあること、救いの道が示されていたものの、カインは弟アベルを殺し、カインの末は罪に罪を重ねて人類の歴史を刻んで来た。しかし神はアベルの代わりのセツの末を憐れみ、神の恵みに与る民を保たれたのである。やがてアブラハムを選び、モーセの時代にエジプトからの救出をもたらし、十戒を明らかに示し、神の民の生き方、神に造られた人間の生きる道を改めて示されたのである。

2、神への背きの罪の故に、唯一の神以外のものへの礼拝が入り込んだ。出発は自分を神に並ぶものとする高ぶりであったが、それは自分に仕えるもの、自分にとって都合の良いものを神とする・・・、そのような形で広がった。目に見えない神を目に見える形にして、神を喜び、神を礼拝するのではなくて、礼拝している自分を良しとする、そのような礼拝へと向かった。それがいわゆる「偶像礼拝」であり、それゆえに「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」と命じられるのである。文語訳は「汝自己のために何の偶像をも刻むべからず。」(※口語訳「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」新共同訳「あなたはいかなる像も造ってはならない。」)

 「偶像」と訳された言葉「ペセル」は、木や石を彫る、切り取る意味の動詞「パーサル」から派生するもので、人は木や石を彫り、刻んで像を造ってこれを拝んだ。人が像を彫る時、主なる神を思って彫ったのであろうか。実際は全く自分勝手に像を造っている。十戒が示された直後にモーセがシナイ山に上り、その帰りが遅かった時、民は金の子牛を造ってこれを拝んでいる。「自分たちのために」神ならぬものを神として礼拝する、これが偶像礼拝であり、神は一切の偶像礼拝を戒められたのである。(出エジプト32:1〜4、8)「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければないりません」と主イエスは語られたのは、この第二戒に基づく教えである。(ヨハネ4:24)

3、詩篇115:2〜8では偶像礼拝の空しさが指摘されている。またイザヤ44:1節以下で真の神に頼る確かさを、偶像が造られる過程を描写してその愚かしさを告げ、あなたは考えて見よ!と迫っている。木や石を人が彫って造ったものを拝むのか、はたまた既に死んだ人を神として拝むのか、祭神が何ものかも分からずのまま、有難さに心を動かすのか、神に造られた人間はもっともっと賢く、本来気高ささえ神からいただいた存在であることを知るべきである。創造者ご自身の栄光が、造られた何ものかに帰されるのは由々しきこと、神を知り、神からの恵みを受けた民こそが、真実な礼拝者となることを神は望んでおられるのである。(※イザヤ42:8、詩篇135:13〜18)

 先週に続いて思うことは、日本の教会の歴史における神社参拝という痛みは、第一戒に触れると同時に第二戒にも触れていたことである。キリストか天皇かを突き付けられ、更に「神社は宗教に非ず」との偽りの教えによって、神社は宗教ではなく、道徳を涵養する行為である神社参拝は「国民儀礼」として大切であると、多くの教会指導者たちもこれを認めたのであった。結局のところ、古くからの神社も国家神道による神社もない交ぜにされ、今に至っているのが社会の現況である。神はこの国の状況をどのように見ておられるのだろうか。怒っておられるのか、悲しんでおられるのか。「ねたむ神」は「憤る神」ではなく「心を痛めて嘆いておられる神」に違いない。恵みを受けた者たちこそが、決して偶像に仕えない歩みをすることを願っておられるからである。

<結び> 私たちは恵みを受け、救いを与えられた者、神に愛されている者として、戒めの一つ一つを守って歩めるようにとの祈りが大切となる。一層神に頼ること、尻込みせずに主の恵みの測り知れなさに拠り頼むことである。背く者への報いが「三代、四代にまで及ぼし」と言われているのに対して、神を愛する者への恵みは、「千代にまで施すからである」と段違いの祝福が約束がされている。(※「アラーフィーム」は「千」の複数形。新共同訳「幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」)「主の恵みはとこしえまで」との言葉が響いて来るのである。(詩篇118:1〜4他)

 私たちは偶像礼拝を避けようとする余り、つい自分のことより、周りの人々を裁いていることがあるのではないだろうか。使徒パウロは「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです」と言い切っている。(コロサイ 3:5)私たちの「貪欲」な心、それが偶像礼拝そのものを生み出す。「自分のために」偶像を造り、自分に仕えてくれる神々を欲するのである。この地上で貪欲から解放されるなら、私たちは真に身軽になって、天のみ国へと翔たけるのである。この地上で神を愛し、隣人を愛して生きることがどれだけ尊いことか、神は私たち一人一人に、神の愛と恵みの内を生きるようにと期待し、励ましていて下さる。戒めを心に刻んで応えたいものである。