8月の暗唱聖句は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」(出エジプト記20:3)であった。この一ヶ月の間、このみ言葉を心に刻んで過ごすことが出来たであろうか。私たちはこの日本の国に住んでいる。この社会の中で生かされている。日本人であっても外国人であっても、この国の歴史の事実と向き合いつつ、またこの国の人々の心の在りようと無関係ではいられない。この8月を私たちはそれぞれの思いで過ごし、それぞれの経験をしながら、唯一の真の神への信仰を新たにさせられたであろうか。(※8月は信仰を問い直される月・・・、私自身にとっては毎年のように、猛暑の中で過ごす真に心の重い一ヶ月である。)
1、暗唱聖句として選んだみ言葉は十戒の第一戒である。文語訳は「汝わが顔の前に我の外何物をも神とすべからず。」口語訳は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」新共同訳は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」とそれぞれ特徴を出そうと訳している。いずれも、新改訳において「わたしのほかに」と訳した言葉が、確かに文語訳のように「わが顔の前に」と訳せる「パニーム」という「顔」の複数形が使われているからである。(※アル・パーナイ)「顔」は人間においてもその人の人格の現れであり、「顔を立てる」「顔を汚す」・・・等、様々な表現があるように、神を神として敬うことが、唯一の神の前に人としての最高最善のことであると第一戒は求めいるのである。
神がおられ、そして人がいる、この単純な事実を認めることが、人間にとってどれだけ難しいことか、人類の歴史はそれを物語っている。聖書は神に造られた人間が神に並ぼうと高ぶり、神の戒めを破って堕落した事実を告げている。人間は全く自己中心となり、罪に罪を重ね、神によって与えられた本来の善を捨て、他の被造物と同じように欲望のままに生きるようになった、そのため神なしとする生き方には希望も光も見出すことは出来なくなったのである。それでも人類が堕落し切ることがなかったのは、神が人に対して憐れみを示しされたからであり、イスラエルを選んでこの民に十戒を与え、これが人類普遍の善の基準、道徳律法であることを示して下さったからに他ならない。神を恐れてこの戒めを心に留める時、初めてこの戒めが心に響き、神に従う思いで戒めを守ることが導かれるのである。
2、戒めは神と無関係に生きる者にとっては、無きに等しいもの、守りたいとは決して思えないものである。その規範がどれだけ尊く、全人類が守るに相応しい内容であったとしても、神に背き、罪ある存在となった人間にとっては守り得ない戒めである。それで神は、「戒めは神からのもの、そして聞き従うべきは、わたしがエジプトから連れ出したあなたである」(1〜2節)と宣言した上で十の戒めを告げられた。エジプトの国、奴隷の家から連れ出され、救いの恵みを受けた者が、感謝に溢れて守るものとして戒めは提示されてたのである。それは普遍的な道徳律法であっても、心から守るよう求められているのは、神を信じ、神を恐れる者たちこそが、先ず第一だったのである。(※神なしの道徳律法は人を縛るのみで、決して守りたくないものとなってしまう。)
神は神ご自身の民たちに、人としての生き方を証しすることを期待しておられた。戒めを守るのは人として在るべきこと。罪のため人はあがくばかりで、思いはあっても義の基準を満たすことは不可能としても、「エジプトの国、奴隷の家」から連れ出されたなら、すなわち罪からの解放という恵みを受けたなら、神の戒めに答えることの出来る者とされるのである。今やそれが可能とされた者として生かされるからこそ、戒めは明らかにされている。今日私たちが十戒を心に留めるにも、この視点が大切である。徒に戒めを守ろうとしても、それは私たちの罪深さのみを暴き、挫折と絶望のみをもたらす。けれども一度神の元に立ち返り、罪の赦しを受けた者として戒めを守ろうとするなら、神からの力、聖霊の導きによって私たちも、神に良しとされる生き方が導かれる。何と幸いなことか!
3、私たちが天地の造り主である神を信じ、神が遣わして下さった救い主キリストを信じる信仰をもって生きることを、神は大いに期待していて下さる。これは真に光栄なこと、何とかして答えたいと思うのは自然である。但し、何か特別なことをすることを期待されているわけではない。極々当り前に、私たちが神を喜び、神の栄光を現して生きることこそ尊いのである。今年度はそのことを、主の日毎に「喜びをもって礼拝をささげる」という歩みが導かれるようにと願ったのである。主の日を尊びつつ、全生活を主にささげ、唯一の神にのみ礼拝をささげる歩みが、決して揺るがされないことを心から祈りたい。
この8月に改めてそのことを思うのは、教会の過去の歴史における神社参拝という痛みと切り離すことが出来ないからである。日本の教会の大部分は、キリストか天皇かを突き付けられて、キリストも天皇も・・・という選択をした。そして「神社は宗教に非ず」との教えを教会指導者たちも受け入れた。その結果、教会は第一戒を破り、第二戒の偶像礼拝へと突き進んだ。戦前の日本基督教会は、1917年(大正6)の時点では「神社は純然たる宗教である」と宣言していた。=第31回大会= 1926年(大正15)にも政府が進める「宗教法案に対しては反対」を表明していた。=第40回大会= ところが1926年は昭和元年であり「天皇即位の大典」にはこれを慶事として喜びを公に示していた。やがて1931年(昭和6)9月満州事変、1937年(昭和12)7月7日の日中戦争全面突入となり、この年の10月第51回大会で、教会でも国民儀礼が行われる道が開かれた。(※政府により国民儀礼が決定されたのは1937年8月24日である。)
<結び> 私たちにとって、み言葉を学びこれに聞き従うことは何よりも大切なことである。十戒に示された神の民の生き方、神が私たちに望んでおられることは明白である。戒めに到底応え切れないという悲痛な思いとともに、救いの恵みに与った者として、聖霊に満たされるならそのように生きられるとの励ましは、私たちを大いに奮い立たせてくれる。それでいながら、国の非常事態とか、国家存亡の危機とか言われると、肝心な所が吹っ飛んでしまった歴史を知ると、大いに戸惑うばかりである。
今朝心に留めたいことは、罪からの救いがどれ程のことか、神が滅びから命へと移して下さるために、キリストが十字架で死なれた事実を、やはりしっかり心に刻むことである。罪ある者の救いのため、その罪深さはについては、自分では到底拭い去ることの出来ない底なしの罪深さであること、神の憐れみなしに、決して今あることのない自分を知ることが必要なのである。神の救いへの感謝に溢れる者だけが、神への愛に生き、また神が愛しておられる人々との互いの愛に生きる者となるのである。私たちは神によってそのように生きる者としていただいている事実を感謝すること、また感謝する者とならせていただくことを心から祈りたいものである。(テモテ第ー1:12〜17、2:5〜6)
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