礼拝説教要旨(2007.08.05) 
平和をつくる者として生きる
                                    (マタイ 5:43〜48)
 8月の礼拝案内に、「梅雨明けとともに、猛暑の夏を迎えるのでしょうか。8月6日、9日、15日と続く、この国の歴史の事実を心に刻み、歴史を支配しておられる神に礼拝をささげます」と記した。猛暑の夏はやや遅れ気味であったものの到来し、歴史の事実を心に刻む日も確実にやって来る。私たちは歴史の主に礼拝をささげるに当たり、歴史の何に心を留めるのか。それはかつての戦争のことであり、私たちが「平和をつくる者」として世に遣わされている事実ではないだろうか。

1、マタイ5章〜7章の山上の説教は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから」(3節)で始まっていた。天国の民の幸いが明らかにされ、天国の民の性質が説かれ、主イエスの弟子たちこそ天国の民であり、神の子としてこの世を生きるのである・・・と語られている。クリスチャンはこのような人々であること、クリスチャンこそ世の人々が思いもよらない生き方が出来ること等々、人には不可能と思える教えが語られている。もし天国に入りたいなら、このようにしなさい・・・と求められるなら、誰一人応えることは出来ず、そんなこと無理です、と言う他ない教えなのである。

 主は、弟子たちにとって無理なことを教えておられたのではなかった。主イエスが共におられるなら可能なこと、天国の民だからこそ出来ることを命じておられた。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(9節)これは、天に国籍のある神の子たちの大切な務め、平和をつくることを果たす人こそ幸いです、と明言しておられることである。そして弟子たちに向かって、あなたがたが民の指導者から聞いている教えではなく、わたしが教えることをはっきり聞き、父なる神のみこころを聞き直しなさい・・・と言われたのである。43節以下は、正しく平和をつくる者の生き方において、主の民、天国の民こそが心すべきカギが説かれている。

2、当時、人々はユダヤ人の指導者たちによって、「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と聞かされていた。聖書は「あなたの隣人を愛せよ」と命じても、決して「敵を憎め」とは教えていない。(レビ19:18)しかし「隣人」とは誰かを峻別する余り、同胞のみを隣人とし、異邦人は隣人ではない、敵ですらあるかもしれないと考え、ついには「敵を憎め」とまで行き着くのであった。真の神を知らず、神を恐れない異邦人は「敵」であり、ユダヤ人以外には近寄らないように・・・、そんな態度が教えられた。しかし、それは「あなたの隣人を愛せよ」との戒めを全く曲解するものであった。

 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(44節)「隣人を愛せよ」に聞き従うには、同胞も異邦人も分け隔てはなく、差別をしてはならなかった。主イエスは常に、全ての人を分け隔てなく受け入れておられた。天の父の慈しみは、悪い人にも良い人にも、正しい人にも正しくない人にも注がれている。自分を愛してくれる者を愛するのは当たり前のこと、自分の兄弟にだけ挨拶しからといってほめられるわけではない・・・、本当の意味で「隣人を愛する」には、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」まで行き着くようにと、主は命じられた。(45〜47節)それは無理ですと尻込みするのだろうか。しかし、主は「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と語られた(48節)。

3、神の子と呼ばれる平和をつくる人の幸いは、敵を愛し、敵と和らぐことの出来る幸いである。自分を迫害する者がいても、その人を愛し、その人のために祈るのが天国の民、天の父に祝福された神の子である。「敵」「迫害する者」とは、神を信じないで敵対する人々、イエスを主と信じない世の人々の全てを含んでいる。そして信仰ある者はついつい不信仰な人々を敵視して、自分から交わりを断ってしまうことがある。けれども、天の父の愛は地に遍く注がれており、神の子たちによって、平和をつくる働きとして実を結ぶようにと促されているのである。

 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との戒めは、主イエスによると、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というまでに展開される。「平和をつくる者」の生き方はそこまで行き着くと言われた。天の父は全ての人に太陽の温もりを与え、雨を降らせ、地に実りをもたらしておられるのである。その事実に気付かないなら、その人は神の愛も、神の慈しみも決して気付くことはないであろう。けれども、主イエスに出会い、神の愛に触れた者は、本当の意味で隣人を愛する人、平和をつくる者となって、敵さえも愛し、迫害する者のために祈るようにと導かれるのである。これは奇跡であり、神がなさる不思議である。

<結び> 8月15日は「敗戦記念日」なのか、それとも「終戦記念日」なのか? 最近では「戦没者を追悼し、平和を祈念する日」として、正午には黙祷をしましょうとの呼びかけもなされる。「平和を祈念する」という言葉は、何の問題もないように見えるものの、私たちは大いに注意を払いたい。天の父のご支配を信じて祈る祈りと、人を神として祀る祈りとは、全く相容れないからである。そして偶像の神に祈る祈りは、決して平和を願うものにはならず、争いに行き着くものとなる。唯一の生ける真の神の前に心を低くする者が、平和をつくる者として用いていただけるのである。(※悲しいことに、聖書の神に祈っていも戦争に行き着くことは、イラク戦争で実証済み。)

 国の安全保障が今日本で最重要課題であるとの声が、政府によって殊更に叫ばれている。しかし、他国を敵視し、その敵に対して備えるとの考え方は、主イエスの教えとかなりの違いがある。一人一人の生活において、「隣人を愛する」生き方は何よりも尊いばかりでなく、国と国、民族と民族においても「隣人を愛する」生き方こそ、最優先されるべきであろう。増して敵対関係が生じて、ギクシャクすればするほど、互いの信頼を回復するためには、どちらかが率先して憎しみを捨てること、手を差し伸べることが何よりも大切となる。

 しかし、真の神の助けのないまま自分から愛を示すのは、人間には不可能である。唯一の絶対者である神を敬い、イエスをキリストと信じる者が、人を恐れることなく愛の一歩を踏み出せるのである。神が愛を注ぎ、知恵と勇気を与えて下さるからこそ、神との平和を得て、「平和をつくる者」として生きることが導かれる。私たち一人一人、平和をつくる者として生きることが導かれるよう、神を信じ、主イエスに心から従う者でありたい。