礼拝説教要旨(2007.07.29) 
天の父に祝福された人たち
                                 (マタイ 25:31~46)
 主イエスは「にせ預言者たちに気をつけなさい」と語っておられた。天の御国に入れられる人たちこそ、偽りの教えを聞き分け、天国の幸いを信じて歩み続けなさいと。私たちはこの日本の国にあって、救いの恵みに生きるよう招かれている。福音が曲げられることのないよう祈る必要がある。また私たち自身が教えを曲げることなく、主の民、主の牧場の羊として歩むことが求められている。私たちの歩みが整えられるよう、今朝も主イエスの教えを聞きたい。

1、マタイ25章31~46節は、先週の教えと共通する部分がある。天の御国に入る人は誰であるか、どのような人であるか、そして、そこでは大きなどんでん返しがあると語られている。天国に入れると思っている人が退けられ、そんな期待をしていなかった人が入れられる。教えを聞いている人々の中には、自分の救いについて不安を抱いたり、最後の最後にどんでん返しがあるのなら、今信じている信仰で本当に大丈夫なのか、そんな心配はしたくないと感じる人もいたに違いない。しかし主イエスは、人々を不安に陥れるために語っておられたのではなかった。救いの確かさを一層確信するように、そのために自分の生き方を整えなさいと教えておられたのである。

 終わりの日を迎える時、主イエスは「栄光の位」に着く王なる方、審判者であると明言されている。その時、全ての国々の民を集め、「羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます」と語られた。最後の審判において、羊と山羊は分けられ、救いか滅びかが誰の目にも明らかとなる。しかし、救いか滅びかは、その時になって初めて分かるのではなく、今生きている時にも分かること、予め心して生きることが出来ることなのである。主イエスは、ご自分の民には、天国の民として大いなる希望を抱いて生きるように、この世で悩みがあり、困難があっても、「あなたがたのために備えられた御国を継なさい」と励ましておられた。(31~34節)

2、今生きている時にも分かる生き方、予め心して生きる生き方は、主イエスによって繰り返し教えられている。それは神を信じ、主イエスを信じて従う生き方であり、山上の説教で語られる生き方である。「自分の宝は、天にたくわえなさい」との教えはその一つであり、心が天に向いているかどうかはとても大切な視点である。心が天に向く生き方は「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」と命じられている、隣人愛の実践に繋がるものである。地上のことに執着するなら、人は決して隣人の益を心に留めることはなく、自分本位の生き方をして止めない。けれども心を天に向けることによって、隣人の益を考える人となれるのである。

 審判者である王は、羊たちに向かって「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、・・・・」と語って、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」と、彼らがした愛の業を見届けておられた。けれども愛の業をしたので天の御国に入るのではなく、あなた方がした業を、わたしは知っている、この世でどんなに小さくても、愛の業こそ尊いものと励ましておられるのである。その愛の業は、やろうとして出来るものではなく、羊たち、神の民にとっては、知らずして結んでいる実であった。神を仰ぎ、イエスに従う者には、必ず結ぶ信仰の実があると言われているのである。(35~40節)

3、山羊たちに語られたことは、裁きの宣告と共に「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べるものをくれず、渇いていたときにも飲ませず・・・・」と、愛の業を欠いたことの指摘である。山羊たちは、一体何時私たちは、あなたのお世話をしなかったのでしょうかとばかり、王の言葉に戸惑っている。彼らは、あれもこれもあなたのためには、多くのことをしたではありませんか、と言わんばかりである。しかし「おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」これが王の答えであった。愛の業は意識してするものでなく、むしろ無意識にするものとなって、初めて実を結ぶと言われている。意識してする時、すべき時にしていない落とし穴があるのである。(36~45節)

 意識することなく実を結ぶ愛の業、それは難しいものであろう。主のため、キリストのためと、昔も今もキリストの弟子たちにとって、愛の業への思いは熱いものがある。けれども、思いの熱さや志の大きさに左右されない愛の業が、王の目に留まっている。「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです。」「この最も小さいひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」この違いで羊と山羊は分けられ、永遠の刑罰か永遠のいのちかが分かれている。その違いは、今この世で主イエスを信じ、主に従って歩んでいるか、主が「あなたの隣人を愛しなさい」、また「互いに愛し合いなさい」と命じておられる教えに聞き従っているかによって明らかになるのである。(46節)

<結び> 今月、第一週の海外宣教週間から始まって、日本での福音宣教に心を向けさせられた。福音の内容が何であるか、十字架と復活のキリストが歪められることのないように、それが大事であること覚えさせられた。そして、私たち福音を信じる者の日々の歩み、この世にあっての生き方そのものが肝心であると・・・。天の御国に入る望みの確かさの故に、今の生き方が真に天国の民としての歩みとなることが求められている。望みの確かさの故に、迷うことなく、躊躇うことなく隣人愛に生きること、それを主は望んでおられる。その愛に生きる人々に向かって、主は「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と語って下さる。私たちは天の父に祝福されていることを感謝しているだろうか。

 今日、参議院議員選挙の投票日である。この日本で生きることを殊更に考える日、考えさせられる日である。結果は主のみ手の中にあるが、私たちは、この世の事柄に左右されることなく、主のみ心に従う潔さを常に求められている。日々どのように生きるか、何が私たちの務めか、心して生きることによって主にみ心に従うことが大事となる。愛の業を実践し、隣人愛に生きることが、益々求められるに違いない。その時、果たして無意識にこの愛に生きることが出来るか戸惑うことが予想される。けれども、この愛に生きるよう主によって整えられたい。キリストと共に歩み、キリストが内にあって私たちを導いて下さることを信じたい。私のために命を捨てて下さった方がおられると知ることによって、必ずその愛に促され、愛に生きることが導かれるからである。
(※ヨハネ第一4:7~12)