私たちが信じる福音の中心メッセージは十字架につけられたキリストであり、死からよみがえられたキリストである。十字架で死なれたイエスをキリストと信じ、死からよみがえられたイエスが今も生きておられ、天にみ国で神の右の座についておられると信じるのである。この福音が全世界に宣べ伝えられ、この信仰に生きる聖徒たちが召し集められるようにとの救いのご計画に従って、日本の地にも福音は宣べ伝えられた。私たちは主のみ手の中にある幸いを感謝する他ない。しかしまた、実際に多くの尊い血が流され、厳しい迫害を経た日本のキリスト教会の歴史があったことを忘れることは出来ない。そして今後の歩みが一層み心に叶うものとなるよう願わされる。今朝もそのような願いを込めて、主イエスの教えに心を留めたい。
1、マタイ7章15~23節は、主イエスが語られた山上の説教の締めくくり、結論の一部である。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。・・・」で始まった教えは、天国の民はどのような人であるか、どのように生きるのかを明らかにしていた。天国に入るためには、このようにしなさい・・・と命じるのではなく、あなた方、天国の民はこのように生きる人です、既に天の父から祝福を受けている事実を悟りなさい・・・との励ましが中心であった。そして結論は三つに分かれ、一人一人自分の生き方を再確認しなさいと迫るのである。
結論部分は、教えを聞く者に、確かに命の道を歩んでいるかどうか、自己点検を迫っている。狭い門から入っているか、間違った教えに惑わされてはいないか、そして賢い人として歩んでいるか・・・。その中で「にせ預言者たちに気をつけなさい」との警告は、誰もが一瞬ギクリとする言葉である。自己吟味に留まらないで、教えてくれる人を見分けるのは、果たして出来ることなのかと戸惑う。何よりも、にせ預言者が出現するとは考えたくなく、彼らが「羊のなりをしてやって来る」などとは、想像するのも悲しい。けれども主イエスは、はっきりと語られた。私たちは主の教えを聞かなければならない。(15節)
2、預言者の真偽を見分けることは容易ではない。しかし、預言者が主の名によって語ったことが実現するかどうか、それによって見分けることは可能である。(申命記18:21~22)また「主の宣告」と言いつつ、主の言葉を曲げる預言者がいたのは事実である。(エレミヤ23:16、35~40)そしてにせ預言者、にせ教師、にせキリストが世に現れることが繰り返し警告されている。(マタイ24:11、24、テモテ第ー4:1以下、ペテロ第二2:1以下)残念なこと、有って欲しくないことである。けれども教会は「にせ預言者たちに気をつけなさい」との警告を聞き続け、実によって見分けることをしなければならない。(16~20節)
にせ預言者の巧妙さは、「彼らは羊のなりをしてやって来るが、そのうちは貪欲は狼です」という点にある。外側からはほとんど見分けがつかず、知らない間に羊が強奪される。キリストの教会がキリストのものでなくなり、名ばかりのキリスト教会になってしまうのである。主イエスの警告は、一人一人が語られる言葉を聞き分け、語られる教えが天の父のみこころであるかを確かめることこそ大切と言い切る。実によって見分けるのは、教えを聞き分けてすることであると。そして一人一人はそれが出来る者であることを前提として励している。主はご自分の民を信頼しておられる。あなた方は出来る、大丈夫、恐れなく前進しなさいと。(※ヨハネ10:1~5)
3、もちろん独りよがりにならず、慎み深く歩むことが肝心であるが、目に見える所に惑わされず、天のみ国に入るのは、天の父のみこころを行う者だけであると信じることが大事である。時に神に対する熱心や働きにおける実績が大切と言われると、自分には何もないと落ち込みさえするのが普通である。けれども、肝心なことは「父のみこころを行う」ことである。父なる神のみこころを行う人が天のみ国に入るのである。みこころを行っていなかったなら、その人はどんなに熱心であっても、またどんなに有能で、主の名によって多くの働きを成していても、退けられる。厳しいけれども、主はそのように断言しておられる。(21~23節、※7:1~5、12等々)
主は教えを聞いていた人々、特に弟子たちに向かって、自分の救いについて不安がらせようとしていたのではない。安心して教えを聞き、みこころを行うよう、そして天のみ国を待ち望むよう励ましておられた。「主よ、主よ」と言う熱心、預言や悪霊追放や奇蹟、それらを殊更に強調されると、つい自分の信仰がちっぽけに見えてしまうことがある。そうしたことに対して、主は、恐れなく天を仰ぎ、父のみこころを行うように、すなわち「わたしのこれらのことばを聞いて行いなさい」と語り掛けておられたのである。惑わされず、「わたし」の教えに聞き従い、それを行いなさい。たとえ共に歩む人が少なくても、心挫けることなく歩み続けなさいと。(※13~14節)
<結び> 日本という国は、残念ながら異教の地である。そして激しい迫害を経験した国である。そのため福音が歪められたことも事実である。それは外からだけの問題ではなく、教会の内にも問題を含んでいた。「にせ預言者たちに気をつけなさい」と言われていたにも拘わらず、教会はにせ預言者の侵入を防げず、教会全体が揺り動かされたのである。特にプロテスタント教会の歩みには、多くの問題があったと認めるべきであろう。特定の誰かを責めることではなく、事実として「父のみこころを行う」より偶像礼拝と妥協し、為政者に屈したことは明白であった。(※第二次大戦中の神社参拝の事実等々)
私たちは、過去の過ちと無関係ではなく、自分たちにも同じ弱さがあることを認めることによって、再び同じ過ちを犯すことのないよう主によって守られる。弱さを認めることは、神の強さに与る祝福への道である。そのためにも、主イエスの教えを心に刻んで、父なる神のみこころを余す所なく行う者としていただくよう祈りたい。そのようにして、確かに天のみ国に入る人として歩ませていただきたい。
にせ預言者が至る所に現れ、惑わす者がはびこる時代が来るなどとは考えたくない。しかし、たとえそんな時が来るとしても、見分ける力、聞き分ける能力は既に与えられているからこそ、主は「にせ預言者たちに気をつけなさい」と言われた。主は教えを語り、私たちと共に歩んで下さる。み国に入れられる日を望み見て歩めるのは、私たちの特権であることを、心から感謝して歩む者でありたい。
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