礼拝説教要旨(2007.07.15) 
イエスから目を離さず     
                                    (ヘブル 12:1〜6)
 7月第一週、「海外宣教週間」として、私たちの国にも福音は海を渡って伝えられたことを心に留めた。その福音の中心メッセージは十字架につけられたキリストであり、死からよみがえられたキリストであった。十字架のキリストを宣べ伝えること、これが世々の教会の務めである。しかし、この日本での宣教は決して容易ではなかった。カトリックにせよプロテスタントにせよ、過去に大きな苦難を経験しつつ今日に至っている。その事実を心に留め、その上で今私たちの信仰が養われることは大切なことと思われる。第一週に続いて、日本のキリスト教会の歴史に触れてみたい。

1、ヘブル12章1節以下は、これまでに何度も読み返し、学んだ個所である。11章で「信仰によって、○○は」と幾人もの信仰の勇者たちが紹介され、その信仰に倣うようにと励ましているが、読者たちにも信仰が脅かされる時が来ることが予測されていた。手紙は、紀元1世紀の後半、ローマ帝国内に迫害の嵐が迫る頃に書かれ、信仰を生き抜くようにとの励ましが中心となっていた。聖徒たちの大切な視点として、自分一人ではないこと、かつて信仰の戦いを戦い抜いた者が大勢いること、彼らが強かったのではなく、共におられた方が力を与えて下さったことを知るようにと励ましたのである。(1節、※11:34)

 「多くの証人たち」とは、旧約聖書に登場する信仰の先輩たちのこと。彼らが歩んだ姿の一つ一つを通して、今生きる聖徒たちが力をいただくことが出来る。神を見上げ、天の報いを望み見て苦難を忍んだ歩みを心に留めると、目の前の苦難に挫けることはなかった。肉体の死さえも恐れない者に変えられた。それは人の目には不思議でも、現実に起っていた。その証人たちが「雲のように取り巻いている」のは、助けのため、励ましのため・・、だから、「私たちも・・・忍耐をもって走り続けようではありませんか」と語り掛けるのである。神は今も同じように天のみ国を約束しておられるからと。

2、しかし、今私たちが聖書を読む時、「多くの証人たち」とは旧約聖書の聖徒たちだけでなく、全世界の全聖徒たちを含むのに違いない。特定の○○と言えない人を含めて・・・。私たちの想像力が問われている。日本のキリスト教会の歴史の中では、カトリックの歩み、特にザビエルの宣教や鎖国時代のことを十分に目を留めなかったと反省を迫られる。(※これはプロテスタント教会の問題であるが、歴史教育も問題であったか・・。)それこそ数え切れない「多くの証人たち」がいた。海を渡って来た宣教師、福音に触れた庶民(農民や漁民や商人)、武士、大名、多くの女性や子どもたち、彼らの苦難や尊い働きがあって、今日の教会があり、一人一人の信仰の歩みに繋がっている。

 ザビエルが日本に滞在した二年三ヶ月の間、最初の鹿児島では一年余りで150名程が信仰に導かれ、また山口で大内義隆に出会い、廃寺を教会堂として布教した時、二ヶ月余りで約500名が受洗している。その後大友義鎮(宗麟)に招かれて豊後の府内(大分)に行き、その地が中心となって、ザビエルの後継者たちによる九州各地での布教が進展した。(※大友義鎮は1578年に受洗。教えを聞いてから27年目。)肥前大村(長崎)では1563年に大村純忠が受洗し、最初のキリシタン大名となり、長崎の各地で布教が進んだが、やがてその勢いを恐れた秀吉(1587年伴天連追放令)、そして家康による迫害(1612年禁教令)へと向かった。それは日本宣教における悲しむべき歴史の事実である。多くの血が流され、多くの人の心に言い知れない苦悩を残し、今日に至っている。

3、ヘブル人への手紙の筆者は、十字架を忍ばれた「イエスから目を離さないでいなさい」と語る。十字架の死を逃れようとした方ではなく、その死を受け入れ、復活の勝利を望み見て十字架に進まれた方のことを思って、勇気を得なさいと励ましている。キリシタンの迫害において、聖徒たちが死を恐れなかった事実は26人の殉教(1597年)においてしかり、また踏絵(1629年)や鎖国(1641年)によっても人々が信仰を捨てなかったことにおいてしかりである。真の神を知り、罪を悔い改め、十字架のイエス・キリストを信じ、天のみ国に迎えられる望みを心に刻まれたので、人々は地上の苦難も死をも恐れないようになった。殉教さえ望むように・・・。(2〜3節)

 キリシタンの布教において、教理的な教えに留まらず、具体的な神の愛が実践されていたことを見逃すことは出来ない。貧しい人や病人に近づき、悩む人、悲しむ人を慰め励ますことを、ハンセン病の病院・療養所を設けることや貧者の葬儀を執り行うこと等によって示したという。日々の生活も生命も脅かされていた人々が真の救いに触れ、生きる喜びを見出していた様は想像に難くない。それこそ「罪と戦って、血を流すまで」のことがあっても、イエスを仰ぐなら、勇気を与えられ、心は満たされるのであった。神の子となって永遠に生きることこそ、真に幸いな生き方、人に従うより神に従う生き方こそ確かなものと知ったのである。(4〜6節)

<結び> 主イエスから目を離さない信仰、この信仰に行き着く人とこの信仰から離れてしまう人との違いは何なのであろうか。この世の損得で信仰を推し量ることによるのだろうか。キリシタン迫害により棄教を迫られた時、庶民よりも大名や武士たちの方が信仰を維持するのが困難であったと指摘されている。実際キリシタンとなって外国との交易を願った大名がいて、禁教となって信仰を捨てた者もいた。けれども高山右近は、高槻城の明渡しを求められた時(1587年)、棄教することなく、そして周りにいる聖徒たちに迫害がおよぶことのないようすんなりと城を明渡したという。秀吉らはその態度に敬意を表しつつ、権力を恐れない態度にかえって恐れを抱いたとされている。

 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスかた目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」やはり十字架の主イエス、そして十字架の死からよみがえられたイエスをキリストと信じる信仰こそが力である。主イエスを仰ぐ時、私たちも揺るがない信仰へと導かれる。苦難の中でも怯まず、同じ信仰に歩んだ「多くの証人たち」がいた事実を心に留めるなら、私たちもまた奮い立って進むことが出来る。神の子とされ、やがて天のみ国に入れられることを確かに望み見て歩む者としていただきたい。