日本長老教会は、数年前、大会決議により7月第一週を「海外宣教週間」と定めた。海外でみ言葉に仕える働き人を覚え、祈りと献金をささげることが導かれるよう願ってのことである。近年その働きは多岐に渡り、直接的または間接的にみ言葉に仕え、主と人々に仕える働き人が多く起こされるようになった。今朝はそのような宣教の働きの広がりを覚えつつ、宣教の中心メッセージは何か、み言葉に耳を傾けたい。
1、「海外宣教」という言葉を聞く時、私自身は、福音が確かに海を渡って来たことを実感する。そして日本には、何時、どのように伝えられたのか・・・ということを思い浮かべる。プロテスタントの宣教は、今から150年前から、そしてカトリックはおよそ450年前からのことである。(※ザビエルの鹿児島での伝道開始は1549年、最初のプロテスタント宣教師の来日は1859年であった。)カトリックはプロテスタント宗教改革に対抗するかのように、海外宣教(布教)に目覚め、1540年にはイエズス会が発足していた。このイエズス会は南米に、また東南アジアにと布教を展開し、ザビエルの来日となった。
ザビエルの日本伝道は二年余りのみであったが、イエズス会を中心としたキリシタン伝道は目覚しく進展し、その勢いを恐れた徳川幕府は、1614年に高山右近の追放など、キリシタン迫害へと向かった。(1582年天正遣欧使節出発の頃、キリシタンは15万人に達していた。※最盛期は70万とも。1597年二十六聖人の殉教。踏絵が取り入れられたのは1629年、キリシタン禁令発布が1630年であった。)やがて幕府の鎖国体制完成が1641年、キリシタン禁令高札が掲げられたのが1654年、以後二百年に渡って迫害の時代が続いた。プロテスタントはようやく1792年にウィリアム・ケアリがインドのカルカッタにて伝道を始め、1807年にロバート・モリソンが広東にやって来たのが宣教師として最初とされている。日本にはそれから50年以上が経っていることになる。
2、リギンス、ウィリアムズ、ヘボン、ブラウン、シモンズ、フルベッキらが最初のプロテスタント宣教師である。彼らは聖公会、長老派、改革派から派遣され、ヘボンとシモンズは宣教医として来日していた。ヘボンは寺に住み、別の寺で医療を始め、やがて診療所を開いて、18年に渡って数万の人々を治療したという。また夫人が始めたヘボン塾が、後に英和学校となり、明治学院となる等、日本の宣教に多大な足跡を残した宣教師の一人である。宣教師たちは皆、福音を携えて来日していた。カトリックに比べて、プロテスタントは十字架の福音を一層明確に語ったことに違いなかった。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と。(18節)
ところが日本では、十字架のことばが明確に伝わったか、やや疑問が残る。この世の知恵によって知ることに人々は向かったのかと懸念される。明治以降、教会に足を運んだ人々の多くが知的に信仰を求め、新しい社会を導く教養を得ようとした人が多かったと言われている。神ご自身は「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」のであるが、日本人はしるしを求め、知恵を求めたかのように・・。使徒パウロは、人々がどんなにしるしを求め、また知恵を求めたとしても、「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」と言い切った。人々のつまずきとなり、愚かとされても、十字架のキリストこそが「神の力」「神の知恵」信じて揺るがなかった。
3、十字架のキリスト、正確には「十字架につけられたキリスト」は、全く見栄えもなく、みすぼらしく、敗者の姿をさらしていた。イザヤが預言した如く、「彼はさげすまれ、人々からのけものにされ、」その行き着いた所が十字架であった。(イザヤ53:1〜12)しかし、その十字架こそ徹底的に低くなられたことであり、罪人の罪を負うための身代わりの死であった。キリストは十字架の苦しみをいささかも割り引くことなく、その苦しみを味わい尽くし、ご自身の命を代価として支払い、ご自分の民を滅びから救って下さったのである。この世の知恵によるなら、全くの無駄遣い、効率の悪い仕方で救いを成し遂げておられた。この世で勝利すること、成功することを求める限り、全く馬鹿げた、愚かしい仕方、それが十字架の出来事であった。
けれども十字架のキリストは三日目に死からよみがえられた。私たちは、キリストの復活をも信じている。パウロが「十字架につけられたキリスト」と言う時、キリストの復活を含んで語っている。復活があってこそ、「キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」と言い得るのである。しかしこの点についても、日本の教会は神の力を信じるより、この世で人を恐れ、神の知恵を求めるより、この世で生きる人間の知恵を優先させたのではないかと、自己検証を迫られている。私たちは何を信じ、何を伝えて来たのかと。
<結び> 「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」この言葉は私たちの確信である。この確信の通り、十字架のキリスト、十字架で身代わりとなって死なれたキリスト、しかし三日目によみがえって永遠の命を約束して下さったキリストを信じ、誤りなくキリストを宣べ伝える歩みが導かれるよう祈りたい。
私たちの愚かさや、弱さの中にこそ神の賢さや強さが現れることを知る時、私たちはもはや自分の愚かさや弱さから解き放たれる。この世がどんなに知恵や力を誇っても、慌てることはない。教会に連なり、キリストに連なっていることに勝る知恵や力は、この世には有り得ないからである。キリストは私たちを愛して、ご自分の命まで捨てて私たちを救って下さったのだから! 教会を通して成される、このキリストを宣べ伝える業に、私たちも喜んで携わりたいものである。日本で! そして世界で!!
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