礼拝説教要旨(2007.06.24)   =教会学校月間=
             子どもを招くイエス       (マルコ 10:13〜16)
 天と地の造り主、創造者なる神を信じ、この神によって私たちの心が養われることこそ大切なことと覚えて「教会学校月間」を過ごして来た。子どもたちの健やかな成長は、子を持つ親だけの願いではなく、社会全体、そして教会にとっての心からの願いだからである。しかし、子どもをどのように捉えるかについて、しばしば大人たちは間違いを繰り返している。主イエスはその間違いを正しておられる。私たちにとって大切なこと、それは正しい人間観であり、正しい子ども理解である。主イエスの教えに今朝も心の耳を傾けたい。

1、「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。・・・」(13節)と記される出来事は、マタイ、マルコ、そしてルカの福音書に共通する出来事である。人々が子どもたちを連れて来たのは、「イエスに手を置いて祈っていただくため」(マタイ19:13)であり、祝福の祈りを期待してのことであった。(16節)自分の子どもにイエスが手を置いて祝福して下さるなら、どんなに喜ばしいことかと人々が集まっていた。中には先を争う人もいたのであろう。その光景は想像に難くない。

 それを見て弟子たちが、人々をしかったところ、主はそれをご覧になり、憤って、弟子たちに語られた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。・・・」(14節)弟子たちは主イエスの忙しさや疲れを思いやったのかもしれなかった。重病の人ならまだしも、子どもたちの祝福は今でなくても・・・と思ったのであろう。人々はほとんど生まれたばかりの幼子(乳飲み子)まで連れて来ていた。(ルカ18:15) しかし、主イエスは弟子たちのその判断と行為に対して憤られたのである。主は子どもたちのために時間と労を費やすことに、全く躊躇ってはおられなかった。

2、主イエスの怒りや憤りは、福音書の中に余り記されていない。はっきりとした「憤り」はこの個所のみである。それは子どもたちが主に近づくのを妨げたことに対する「憤り」であった。「神の国は、このような者たちのものです」と語って、子どもたちこそ神の国に相応しいと明言された。本来相応しい者が何者かによって退けられるのは、全く主イエスのお心ではなかった。弟子たちが、子どもたちをまだまだ取るに足りず、その場に相応しくないと考えたのに対して、主は、子どもたちこそ今私の祝福を受けるべき者、私の愛の対象であると見ておられたのである。

 子どもたちの中でも、親に抱かれて連れて来られる以外、自分ではイエスの下に近づけない幼子のことを忘れてはならない。彼らこそ「わたしのところに来させなさい。止めてはいけません」と言われている。すなわち、親たちまた大人たちは、よほど注意していなければ、弟子たちと同じように、つい良かれと思いながら、子どもたちが主イエスに近づくのを妨げる、とんでもない間違いを犯すのである。 子どもたちが主によって招かれているにも拘わらず・・。主イエスの祝福は単なる言葉上のものではない。主が祝福されたなら、それはその子どもの一生に関わる、天からの祝福が注がれるのである。

3、主イエスがご自身の祝福へと招いておられるのは、大人も子どもも、男も女も、奴隷も自由人も、全ての人を分け隔てることなく招いておられるのである。それ故、今子どもたちは招かれていないと、勝手に判断した弟子たちに対して、主は憤られたのである。大人たちがしばしば間違うのは、自分たちこそ神の国に相応しいと自分勝手に決め付けることである。主が語られる言葉を、自分は理解した、分かったということで安心する。しかし主の招きを心から受け入れる者、自分の理解に頼ることをしない人こそ主の祝福に与るのである。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(15節)

 子どもたちこそ神の国に招かれていること、また子どものように神の国を受け入れる者がそこに入るのを許されていること、この二つの真理を主は明らかにされたのである。大人たち、また親たちは自分の心の内を探られる。子どもたちにとって、何よりも必要なこととして、主イエスの祝福を求めているだろうか。子どもたちを主イエスのところに連れて来ること、連れて行くことに心を砕いて来ただろうか。そして自分自身、神に信頼することにおいて一心であるか、また主の教えに聞き従うのに心砕かれているか、すなわち子どものようにな心でいるかどうか問われているのである。救いのカギはここにこそある。

<結び> 主イエスは「子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。」(16節)人々の間を走り回る子どもたち、また母親の衣の裾をしっかり掴んで隠れるようにしている子どもたち、母の胸に抱かれて連れて来られた幼子たちが、次々に主イエスに抱かれ、頭に手を置いて祝福の祈りをささげてもらった。大きな喜びと安堵がその場を包んでいたに違いない。主は子どもを愛しておられ、子どもたちを確かに招いておられた。

 子どもを招く主イエスの、そのみ心を私たちは理解し、主のみ心を行うことを導かれたい。16日(土)の子ども会に、私たちの思いを越えて新しい子どもたちを主が招いて下さった。主は確かに子どもたちを招いておられると、改めて教えられた。ここ数年チラシ配り他、教会の集会案内の方法に困難を覚える現状がある。けれども今回は、チラシに対する反応がいつもと違うことを感じた。主が働いておられると。私たちは子どもたちを妨げることなく、主に仕え、子どもたちを喜んで迎えるよう、祈りと働きを主にささげるようにと励まされた。教会の皆で、子どもたちを招いておられる主と共に、子どもたちの救いと魂の成長のために祈り、労する者として歩ませていただきたい。