礼拝説教要旨(2007.06.10)   =教会学校月間=
             あなたの心を見守れ       (箴言 4:20〜27)
 私たち人間の「心」は一体何によって養われるのか。それが分かっているなら苦労はなく、社会の混乱はこれほど深刻になることもなく、解決の糸口を見つけるのは、さほど難しくない・・と言われそうである。しかし現実ははなはだ困難な状況である。一方私たちは、聖書によって一貫して造り主なる神に立ち返るよう、神を恐れて生きるよう教えられている。神の教えによってのみ人の「心」は養われ、その教えに聞き従う時、人は正しく歩むことが出来ると確信している。だからこそ私たち自身が真実に聖書に聞き従っているか、その自己吟味を迫られながら、今朝もみ言葉に耳を傾けたい。

1、神を恐れず、創造主を認めないこの世あって、大多数の人が人の命の根源を認めようとはしない。それでいて大人たちは、「命の尊さ」を子どもたちに教えようとする。(時に無理やりのように)そこには大きな矛盾があり、子どもたち自身はその矛盾に気が付くという現実がありはしないのか。これが今日の日本の社会の現実ではないか、という気がしてならない。子どもたちの教育を考え、知育、体育、徳育、それに食育・・と全人格的な教育がどれだけ大切かは、誰もが同意することである。けれども人間が何者か、その起源が何であるかを曖昧にして教育を論じるのは、難しいことと言わなければならない。

 日本の社会は明治維新以来の近代化において、それを指導した人々が欧米に習おうとしつつ、欧米の人々の心の底にあった聖書は受け入れたくなかったとしばしば指摘されている。聖書に代わる規範はないかと探り、行き着いたのが天皇制であったと。大日本帝国憲法において「天皇は神聖にして、犯すべからず」と定め、教育勅語を広めて人の心を縛る政策を進めたのは、誤った形ではあるが、的を得ていたのかと驚くばかりである。戦前の教会の多くが、日本のキリスト教会こそ本物の教会となるべく導かれていると錯覚さえしてしまった。聖書に優る規範を持っているかのごとくに突き進んだのである。

2、私たちは、「徳育」または「道徳教育」というものが、確かに人の生きる道を説くものであるとしても、造り主なる神を忘れ、神を無視して展開される時、はっきりとそれを見分けなければならない。1945年8月15日の敗戦を機会に過去の過ちを認めた筈であった。ところが62年を経て、今日の様相は驚くばかりである。「徳育」を教科とする意見が飛び交い、教科とするならその成果をどのように評価するのかと賛否が分かれている。造り主抜きの道徳教育は、必ずそれを意図する何者かに利用される。それに対し、私たちは神を恐れ、神の教えに聞き従って、人としての生きる道を踏み行うのである。

 箴言は「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」(1:7)と語り、真の神を恐れる生き方を教えている。神を信じ、神に拠り頼んで生きよ、神を恐れて、悪から離れよと。(3:1〜10)その筆者は、自らが神を信じる者として、わが子に諭すように語り続けた。父の教え、父の訓戒を忘れるな、と繰り返し、神を恐れる知恵を得よと。(4:1〜2)「私の教え」、また「私のことば」と語っていたことは、全て父なる神の教え、また神の言葉を指していた。すなわち神の言葉、神の教えを心に蓄え、その教えに聞き従う者であれ、と勧めていた。

3、「わが子よ。私のことばをよく聞け。私の言うことばに耳を傾けよ。それをあなたの目から離さず、あなたの心のうちに保て。見いだす者には、それはいのちとなり、その全身を健やかにする。力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(20〜23節)「心」とは、理性または知性、感情、そして意志を含む全人格を表すものである。人の心は神の言葉を宿すことによって養われ、神の教えに聞き従うことによって整えられるものである。心が神に向き、神に導かれる人はその口も、目も、足も、すなわちその人の全行動が正されるのである。(24〜27節)

 「あなたの心を見守れ」と命じられているが、私たちは、自分で自分の心を見守ることが出来るのだろうか。とても出来るとは言えない。ではどうすることが求められているのか。文語訳は「すべての守るべきものにまさりて汝の心を守れ」と訳している。心に神の教えを刻み、蓄え、これに聞き従う者となるよう勧められている。み言葉に聞き従うその人の全人格から、いのちの泉が湧くのである。神を愛し、神に仕える人は、人を愛し、人に仕える者として歩むことが導かれる。人として道を踏み外すのは、神に従う心を欠くからに他ならず、神を恐れる心こそカギとなる。(※詩篇119:9〜16)

<結び> 人の心が養われることは、全ての人にとって必要なこと、何をさておき果たされるべきことである。その時、天地を造られた神によって心が養われることが肝心と、私たちは確信している。今以上にみ言葉に聞き従う者と成らせていただきたい。それこそ「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ」と命じられている通り、神のみ教えを心に刻み、蓄える者に成らせていただきたい。そして神に従う者の証しを立て、神の栄光を顕わすのである。

 私たちの生きる全てが神の目には露であるということは、キリストを信じる私たちにとって絶大な安心であることを覚えたい。どんなに注意を払ったとしても、同じ失敗を繰り返している。失敗したなら直ちに裁かれるとすれば、私たちに安心はない。けれども今私たちは、神のみ子イエス・キリストを信じて、罪を赦された者として生かされているのである。神の教えを心に宿し、聖霊のみ力に導かれて地上の日々を生かされている。神が一人一人を世に送り出していて下さる。私たちこそ、神に見守られている日々を感謝をもって過ごたいものである。