私たちは、教会に連なる子どもたちはもちろん、この社会に生きる全ての子どもたちの健やかな成長を願って「教会学校月間」を設けている。子どもたちのために祈り、救い主キリストを信じる子どもたちが起こされ、子どもたちが喜びに溢れて生きることが導かれるようにと、心から願うからである。現実の社会が、今日余りにも混乱し、人々の心が益々荒んでいく中で、私たちはいよいよ祈りを熱くささげることが求められている。そのためには何を根拠にし、何を伝えることが大切なのか、み言葉から思いを新たにさせていただきたい。
1、「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」との書き出しで始まる伝道者の書は、神無しで生きる人生には、只々苦痛や空しさだけが付きまとい、全ての人に等しく死が待ち受けていることをどのように説明するのか・・・との問を突き付けている。肉体の死が全ての人に等しく臨む下で、本当に意味のある生を営むには、どうすることが大切なのかを問い掛けるのである。(2:22〜24)
多くの自問自答を繰り返しながら、神がおられること、神が一切を支配しておられることを知って生きるか、このことによって人の生き方が定まると伝道者は確信した。(5:18〜20)けれども、また考え込む。この地上にはまだまだ不可解なことは尽きないからである。(6:1以下、7:15以下) その繰り返しの後に、やはり行き着く所は「神がおられる」との確信であった。人がその全てを理解できないとしても、全てが「神の御手の中にあること」を悟った。大事なことは今生きていること、いや生かされてことと気付くのである。
(9:1、4〜10)
2、聖書が教える世界観は、唯一の神がおられ、この神が世界を造られ、これを治めておられるというものである。神は無限なる方であるが、造られた世界は有限である。神に造られた人間は、神によって生かされている有限な存在なのである。それゆえに「主を恐れることは知識の初めである」と語っている。(箴言1:7) 造り主である神の存在を知り、この神を恐れることによって、人は人として本来の位置に立つことが出来る。伝道者は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と語るのである。(12:1)
神によって造られ、生かされている人間にとって大切なこと、それは自分の命の根源を知ることである。命の源は偶然なのか、それとも必然なのか。偶然が始まりなら、人の存在に意味を見出すことは難しい。それこそ「・・・・空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」しかし、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7) これが人の命の始まりであった。しかし、神の命令に背いたことにより、人の命には罪の結果による死が加わったのである。(創世記3:1以下)
3、「命の尊さを教えなければ・・・。」凶悪な犯罪が低年齢化し、痛ましい事件が起る度、この言葉が繰り返されている。けれども、「命の尊さ」を口にしつつ、人には必ず死が訪れることは、ほとんど触れられていない。いや触れることが出来ないのである。生きることは善で、死ぬことは悪であるかのように。人の命がどれほど尊いのか、神無しを根拠にする限り、決して論じられないからである。しかし、人を生かしておられる神に対し、全ての人が、自分の命も他の人の命も尊ぶことが求められている。命を損なう者は、命の所有者である神から、その責任を問われのである。
「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」(12:13〜14)神が全てのことを知っておられるとの認識をもって生きているか否か、これがその人の生き方を決める。人の命の根源は神にあること、神が私を生かして下さっていることを認める人は、神の前にも、人の前にも心を低くして生きる人となる。けれども、神を認めず、自分の力に頼る人は、徒に自分を誇って高ぶるか、徒に自分を嘆いて他の人を責めるかのどちらかになるのである。私たちはどちらの生き方をするのか?
<結び> 伝道者は、人の一生には必ず終幕があること、死が近づき、老いが迫る時、必ずのように気力のなくなる年月の来ることを告げている。神無しで生きようとする人に、その時ははなはだ重く圧し掛かると警告を発している。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、・・・」と。私たちはこの言葉を、自分のために聞き、また次の時代を背負う若者たちに伝えたい。幼い子どもたちに、神を恐れて生きる幸いをはっきりと伝え続けたい。子どもたちが創造者を信じて、幸いな人生を生きる人となるように。
また大人である者にとって、今日「老い」をどのように迎えるのかは、とても大きなテーマである。けれども、造り主を信じて生きる者には、生きることは日々新たに生かされることであって、たとえ肉体は衰えても、心は日々新たにされていることを心に刻みたい。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ40:30〜31、※詩篇103:5) 人の命の根源は神にあることを知る者は、命を支配しておられる神に全てを任せ、神に信頼して生きる幸いを日々経験させられる。心を低くし、心安んじて生きる日々の幸いを証しする者としていただくよう祈りたい。
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