「あなたには助け主がいますか?」あるいは「あなたの人生には本当の助け主がいますか?」と問われて、私たちは何と答えるだろうか。「私には助け主がいます」と、はっきり答えられる人は幸いである。もし考えても誰も思い浮かばないとしたら、その人は自分一人で頑張って生きている人かもしれない。家族や友人の顔が思い浮かぶ人は、多くの人に支えられている幸せな人であろう。しかし、人の助けはしばしば肝心な時に当てにならず、本当の「助け主」がいるかどうかを問うことは、私たちにとって大切なことである。
1、ゴルゴダの丘の十字架で死なれた主イエスは、死を前にした最後の晩餐の席で、弟子たちに多くのことを語っておられた。(ヨハネの福音書は13章以下、かなり詳しくその教えを記している。)緊迫した空気の流れる中で、弟子たちの恐れと不安は極度に高まり、彼らは的外れな言葉を繰り返していた。主は「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。・・・」と語られた。(14:1)弟子たちに、主イエスとの別れが近づいているのは明らかであった。主の死が迫っていることも・・・。けれどもその死の意味は分からず、動揺だけが彼らの心を支配していたのである。
主イエスは弟子たちの心を思いやり、「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は真理の御霊です。・・・・」と約束された。(16〜17節)ご自分がこの世を去った後に遣わされる方がおられること、その方は「助け主」であること、あなたがは決して見捨てられることはないと明言された。(18〜19節)助け主である聖霊は、弟子たちが今は理解できないことも、その日には明らかにして下さり、また互いに愛し合うようにとの戒めも守らせて下さるのである。(20〜21節)
2、その日、その時、弟子たちは主の言葉の意味が分かっていたとは言い難かった。(25〜26節、16:12)けれども主が約束されたことが実現する日が来た。それが五旬節(ペンテコステ)の日であった。死からよみがえられた主イエスは、四十日に渡って弟子たちの前に姿を現しておられた。天に昇られる前には、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」と約束された。(使徒1:8) 昇天されて十日後、約束の通り、聖霊が目に見える形で弟子たちの上に臨むことが、五旬節の日に起った。彼らは「みな聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒2:1〜4)
この突然の出来事は、エルサレムの町にいた人々はもちろんのこと、弟子たちにとっても驚くべきことであった。彼らは聖霊に押し出されるようにして語り出した。その日まで人々を恐れて一つ所に集まっていた者たちが、もはや恐れなく、人々の前で大胆に語り始めた。「いろいろな国のことばで神の大きなみわざ」すなわち、イエスの十字架と復活の出来事を語ったのである。よみがえられたイエスこそ信ずべき方、キリストです!と。彼らは助け主によって導かれていることが分かった。(使徒2:32〜33)それは不思議であったが、確かな現実であった。助け主の導きは揺るぎなく、その力は大きかった。恐れなく語り、躊躇いなく前進することが出来たからである。
3、「助け主」としての聖霊が遣わされることは、最初の五旬節の日には目に見える形であった。その後も度々そのように遣わされたが、聖霊が遣わされることは、目に見える形に縛られず、主の約束の通り世々に渡り、今日に及んでいる。主イエスをキリストと信じる信仰を言い表す者全てに、神は聖霊を「助け主」として遣わして下さるのである。(使徒2:37〜39)その人の生涯は、常に「助け主」がともにおられ、真理に導かれ、見捨てられることなく、神に愛されて生きる日々となる。これに勝る人生は他には有り得ない。
「助け主」と訳される言葉(パラクレートス)は、助けのために傍に呼んだ人のことを意味する。弁護する者、またとりなす者を指す。遠くで見守ってくれる人ではなく、傍にいて手を取って支えてくれる、そのような存在である。それで「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」と言われる。主イエスご自身が「助け主」であられる上、更に主がこの世を去られた後、目には見えなくても確かな助けのあることを知るように、「もうひとりの助け主」を遣わして下さるというのが、主イエスの弟子たちに対する心遣いだったのである。弟子たちはただ守られているのではなく、二重にも、三重にも神のみ手の守りの中にあったのである。(※ヨハネ第ー 2:1)
<結び> 最初のペンテコステの日、ペテロを初め弟子たちが力を得て語り始めた事実こそ、私たちにも勇気と力を与えてくれる。「助け主」によって私たちも必ず変えられるからである。事実、変えられ、支えられて今日に至っている。どんなに恐れに取り囲まれても、「助け主」なる神が共におられ、私の内にあって支え、知恵を与え、力を与えて下さった。どんな苦境が押し寄せても、見捨てられず、「孤児にはしません」と言い切って下さる主イエスがおられ、「もうひとりの助け主」もおられるとは何と幸いなことか!
天地の造り主なる神を信じ、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じること、そして主イエスが約束された「助け主」を信じて、この「助け主」がともにいて下さる人生を歩むことは、この世で最高の人生を歩むことに他ならない。私たちは、迷うことなくこの最高の人生を歩み続けたい。心からの感謝を神にささげて・・・。けれども、もしぼんやりと歩んでいるなら、今朝思いを新たにして、はっきりと主イエスの約束の言葉を聞き直したい。主を信じる者に「助け主」が遣わされると、主が約束しておられる。主ご自身が共にいると約束されたに留まらず、聖霊が「助け主」として共にいて下さる幸いな人生を歩むようにと語られている。「あなたには助け主がいますか?」また「あなたの人生には本当の助け主がいますか?」との問い掛けに、「私には本当の助け主がいます!」と答え、確かに「助け主がいる人生」を歩ませていただきたい!!
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