礼拝説教要旨(2007.05.20) =教会設立28周年記念礼拝(1979.5.20設立)=
      愛のうちに建てられる教会   (エペソ 4:1〜16)
 私たち所沢聖書教会は、教会のかしらキリストの恵みと導きによって、今日「教会設立28周年記念礼拝」を迎えることを許された。1979年5月20日に三名の長老の任職により「長老教会」として歩み始め、今日に至った。毎年5月の第三週は、主の恵みと導き、そして何よりも主のあわれみを感謝する礼拝が導かれている。今朝も恵みを数えつつ、み言葉に聞き、み言葉に養われ、一人一人が教会に連なる者として歩み続ける思いを新たにさせていただきたい。

1、私たちは、教会の「設立」と「創立」を区別している。「創立」については、1957年から58年にかけて、カナダ人のジョージ・ベネット宣教師が開拓伝道を始められた事実を覚えているが、正確な日付は明らかではない。ベネット師のご奉仕は1968年初夏の帰国を最後に、横山幹雄師にバトンタッチされ、一年後ソルトー宣教師、その一年後再び横山師、そして1971年4月、神学校を卒業したばかりの私(柳)が伝道師として招かれた。その時、教会員6名と記憶している。教会形成を主目的とは余り考えないニュートライブスミッションによる伝道開始から、教会形成を強く意識する方向への転換は、ソルトー師の奉仕の一年の間になされ、家庭集会中心の働きから公の集会所での礼拝へと、教会全体の意識は大きく変わって行ったのである。

 当時、単立教会に伝道師として招かれた私は、所沢聖書教会が将来、長老教会に加入するかどうかは白紙のまま、自由に奉仕して下さい・・という趣旨の言葉を聞いていたが、実際は「長老教会加入が実現するように・・」と奉仕していた。当時の長老教会が最善の教会とは思えなかったが、聖書に忠実に歩みたいと願っている教会として、私も忠実に従いたいと願ったからである。教会は四年目より長老教会加入を検討し始め、1975年2月9日に正式加入となり、1979年5月20日、長老任職による教会設立を導かれた。教会のかしらキリストがおられ、牧師だけでなく複数の長老がいる教会、長老たちによって治められる教会、これが私たちの教会理解であり、教会設立は大きな喜びであった。

2、その日から早28年。その間、私たちは、主のみ心に叶う歩みをして来たであろうか。この土地で会堂建設が導かれたのが1978年4月と11月、そして翌年の教会設立となり、会堂の建設と教会の内面の建設が重なっていた。キリストの教会が建物や身体の仕組みに譬えられていて、エペソ4:16からからも繰り返し教えられた。教会はキリストの栄光の輝く所であり、キリストご自身が、そして神の愛が満ち満ちている所である。パウロは世々の教会がキリストの栄光を輝かし続けるようにと勧める。教会は、神によって滅びから命へと呼び出された者の群れであって、呼び出された者、召し出された者として「その召しにふさわしく歩みなさい」と。(1節)※「教会=エクレーシア」

 そのために「御霊の一致」を保つことが先ず勧められる。(2〜3節)キリストのからだに連なる者は多くいても、からだは一つであり、唯一の神がおられることを信じる信仰こそが肝心だからである。そして一致を保つには「愛をもって互いに忍び合う」ことが必要となる。(4〜6節)しかしまた、からだには多くの部分があり、一人一人に賜物が与えられていて、役割の違いのあることを見落としてはならない。(7〜11節)教会は実に多様な働きによって成り立っており、多様な働きの巧みな組み合わせによって、堅固なからだに建て上げられるというのである。カギを握るのは「愛をもって真理を語る」こととなる。誰もが愛をもって真理を語る所に、互いの信頼が生まれるからである。
(12〜15節)※この点で世の多くの組織とは全く違う存在である。この世では真理を隠して事を行うことが余りにも溢れている・・・。
3、私たちは教会の「一致」を保つことを求め、神の愛に満ち溢れ、愛のうちに建て上げられることを願って歩んできた。けれども「愛をもって互いに忍び合う」ことを十分に成し得たであろうか。また「愛をもって真理を語る」ことを心から果たしてきたであろうか。いずれも「はい」とは言い難い。そのように願ったのは事実であっても、実際には繰り返し挫折し、忍び合うより心を騒がせ、真理を語るより心を偽ることが度々だったのではないだろうか。心からの悔い改めをもって神の前に立つ以外に、私たちは何もすることは出来ない。神のあわれみがなければ、今日神に礼拝をささげることさえ有り得ない。神の赦しの測り知れなさによって、私たちは神の前に立たせていただいている。キリストが十字架が死なれたこと、罪の代価を支払って私たち信じる者を救いに入れて下さったことこそ、実に恵みにより、信仰によることなのである。

 それ故に神の前に立つ毎に、自らの力では成し得ないことを神によって成し得るよう心からの祈り求め、主の導きを願うことが相応しい。教会の「一致」を求め、「愛をもって互いに忍び合う」ことを得させて下さい、また「愛をもって真理を語る」ことを導いて下さいと祈ることである。私たちに愛がなくても、キリストの愛が注がれるなら、私たちは愛の人と変えられる。その時必ず「互いに忍び合う」交わりが生まれる。そして「真理を語る」よう言葉が与えられる。こうして教会は「愛のうちに建てられるのです」と語られる通り、キリストの栄光を輝かすことが導かれる。(16節)私たちの教会も、この世にあって、この世には有り得ない愛の交わりを証しする存在として、神によって用いられる光栄を担っているのである。

<結び> 主イエスはこの世の「終わりの日」に関し、その予兆として「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります」語っておられる。(マタイ24:11)その言葉の通り、今日愛の冷えた悲しい事件が続発している。余りに痛ましく、悲し過ぎることが多い。私たちは愛を受けた者として、愛をもって生きることを、もっともっと祈り求め、真実に、そして真剣に愛を証しすることが求められているのではないだろうか。キリストにあって罪を赦された私たちにとって、愛をもって互いに忍び合うことは、主ご自身に習うことである。また、愛をもって真理を語ることは、主に従うことそのものである。主に従う心こそ問われるのである。

 この世で人々の愛が冷えても、教会に愛の交わりがあるなら、その神の愛のもとに人々は招かれるに違いない。「愛のうちに建てられる教会」として、私たちの教会が整えられるように、そして神によって用いていただけるように祈りたい。主の日毎にささげる礼拝が、何としてもキリストの愛の満ちる礼拝となり、キリストの栄光の輝きを発するものとなるよう祈りつつ、次の一年、また次の一年と、私たちの教会の歩みを積み重ねたいものである。