あなたがたのからだを、
神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。
それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
<2007年度主題聖句 ローマ 12:1後半>
新年度が始まり一ヶ月を過ぎた5月の第一週は、毎年「日本長老教会創立記念礼拝」である。そしてこの第一週に、私たちは年度の主題聖句を心に刻む礼拝を、毎年のようにささげている。今年度の聖句は、使徒パウロがローマの聖徒たちに霊的な礼拝を勧めるみ言葉である。私たちがささげる礼拝が、真に霊的なものとして神に受け入れられるものとなるため、思いを新たにして、このみ言葉に心の耳を傾けてみたい。
1、ローマの聖徒たちに、パウロが何としても伝えたかったこと、それは全人類の罪の現実であり、罪と滅びからの救いはキリストの十字架による以外にはないこと、そしてキリストの十字架の死と、死からのよみがえりこそが聖徒たちの望みであることであった。この救いを与えて下さる神こそ信頼すべき方、賛美と誉れを受けるべきお方である。この神のために人が何か出来るのかと問うなら、何一つ出来ないと答えるほかない。神は神ご自身で満ち足りておられ、一切を支配しておられるからである。
そのことを知った上で、キリストを救い主と信じた者、神の民とされた者の成すべきこと、それは神礼拝であり、その礼拝は自分のからだを神にささげることによって成されるのである。パウロは、あなたがたのからだを、供え物として神にささげなさいと勧めた。「神に受け入れられる」「聖い」「生きた」供え物としてと、ささげ方の指針が示されている。神が良しとして受け入れて下さるもの、神のために聖別され、選び分かたれたもの、そして死んだものではなく生きているものとして、自分をささげることが求められている。
2、これは、礼拝をささげる者自身が自分をどのように認識しているか、自覚しているか、自己認識の問題である。からだを供え物としてささげる礼拝とは、動物をいけにえとしてささげる礼拝が意識されているのは間違いなかった。けれども、動物をいけにえの供え物とする礼拝は、キリストが十字架で死なれたことによって、もはや過ぎ去ったのである。だからこそ、からだを生きた供え物としてささげるよう勧められており、神によって生かされている全てを良しとする歩みを、今しているかどうか、全生涯が神のみ心に叶っていると言えるかどうか、常に生き方を問いつつ生きることが、神礼拝の生涯となるのである。
神のために自分のからだをささげることは、神が私自身をどのように用い、何をさせようとしておられるのか、私の生涯をどのように導かれるのか、そうしたことの一切に関して、神のご支配を認め、受け入れることにほかならない。「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」とパウロが言い切るのは、私の全ては神のものと、神にささげ切った歩みをすることこそ「霊的な礼拝」、すなわち成すべき、理に叶った礼拝であることを意味するのである。それ故に2節の勧めが続くのである。神に隠れて生きる日々は有り得ないこと、全てが神の目に露であることを知って生きる、そんな神礼拝の日々を生きることが、私たちにとっても大切なことである。
3、キリストを信じる者にとって、全生涯、また全生活が神礼拝であることを決して見失ってはならない。その上で私たちは、主の日毎に「喜びをもって礼拝をささげる」という歩みが導かれることを願うのである。神に愛され、キリストによって罪を赦され、神のご用に役立つ者として認められ、期待されていることは、途方もなく光栄なことである。自分が持っている何かをささげての礼拝ではなく、そのままの自分を神の前に携えささげる礼拝、それを主なる神は喜び受け入れて下さる。何も持たずに、ただ自分を神にささげる礼拝を神は喜んで下さるのである。私たちはただ神を喜び、礼拝に連なること、すなわち礼拝において神を喜ぶことで、他に何をも成し得ないということでもある。
この世の常識は、何かを携えて行かない限り認められないのがほとんどである。携えて行くべきは粗末なものでは許されず、限りなく高価なものほど受け入れられるかのように、この世の宗教は驚くほどの富を蓄えている。しかし、私たちは自分のからだを供え物としてささげて礼拝するのである。神の前に自分を置くという表現が相応しい。神に私をささげます、私をお用い下さいと祈る。賛美をささげるのも、祈りをささげるのも、献金するもの、全ては私をささげますとの告白に結びついている時、それこそ「あなたがたの霊的な礼拝」として、神がそれを受け入れて下さるのである。
<結び> 私たちにとって、主の日の礼拝の場にいることが大きな喜びであるなら、そこに必ず神を喜ぶ礼拝があり、神ご自身がみ栄えを現して下さる。神を喜ぶ所には、神にお会いする喜びがあり、神の家族に会う喜びがある。そこで一週間の労苦から解き放たれた喜びと平安を味わうなら、神が用意しておられる天のみ国の喜びと平安を味わわせて下さっているのである。主の日の礼拝には、天のみ国の前味としての礼拝の意味のあることを、思いを新たに心に刻むべきであろう。(※天国の交わりの喜びには、同窓会(例えば小学校)の良さに似たものがあるのか。人生の成功、不成功、また能力などはほとんど問われない、皆同じ経験をしたことで繋がる不思議な空間・・・・。)
説教題は「神を喜ぶ礼拝」としたが、天地を造られた神に対して、救い主キリストを通して私たちのからだをささげる礼拝は、霊とまことによってささげるものである。(ヨハネ 4:21〜24)地上の場所や形式によらない真の礼拝は、世界中のどこにあっても真の礼拝者たちによってささげられる。神を喜ぶ心、そして神への感謝をもって一つ所に集い、神の家族であることを喜び合うなら、そこで神を喜ぶ礼拝がささげられ、そこに神からの喜びと平安が満ちるのである。私たちは週毎に、そのような礼拝をささげ、またそこから送り出される。その一回一回を宝のように尊ぶことを心に留めようではないか。そして、神を喜ぶ者、神からの喜びをいただく者として、主の日の礼拝をささげ続けたいものである。
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