十字架の死からよみがえられた主イエスは、弟子たちの前に何度も現れ、ご自分が死からよみがえったことを明らかにしておられた。弟子たちは主から力を与えられ、世に遣わされ、復活の証人として歩み始めていた。十字架を前に逃げ出した弟子たちも、復活の主のお会いして、確かな信仰へ進ませられていたのである。やがて「週の初めの日」が特別の日となり、主イエス・キリストの十字架の死と死からのよみがえりが福音の中心メッセージとなっていった。
1、弟子たちの復活信仰がいよいよ確かなものとなるのに、最初はなお時間を要していた。復活の主は、四十日の間、弟子たちの前に現れ、神の国のことを語り、その上で「数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された」のである。(使徒1:3)この四十日の間のことについて、聖書は全てを明らかにしてはいない。幾つかの出来事が福音書に記されているだけであるが、それは復活そのものが、余りにも確かな事実であったことを物語っている。この事実を必死になって否定しようとしたのは、ユダヤ人の指導者たちであり、彼らは死体盗難説を広めたのであった。(マタイ28:11〜15)
イエスの復活を全く信じられなかったパウロは、ユダヤ人として先祖伝来の信仰に堅く立っていた。神に対して、自分ほど熱心な者はいないと自負し、イエスを信じる者への迫害に燃えたのであった。そのパウロに主は現れ、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と語られた。(使徒9:5)この時を境に彼は復活のイエスを信じる者となり、他の誰にも増して、主の復活の証人として福音を宣べ伝える者となった。復活の主イエスが彼に現れたので、もはや復活を信じないではいられず、その事実を辿ると、実に多くの人が復活の主にお会いし、その証言をする人はおびただしい数に上っていたからである。
2、パウロは自分自身が経験したこと、また多くの証人がいることとしてイエスの復活を証言した。(1〜8節)主イエスの十字架と復活から24、5年を経た頃であるが、彼はコリントの教会の聖徒たちに、福音の中心メッセージはイエスの死と復活であること、特によみがえりを信ずべきと伝えたのである。私があなたがたに宣べ伝えた「福音」、あなたがたが受け入れ、それによって立っている「福音」「この福音によって救われるのです」と語った。「福音」の中身はキリストの十字架の死と死からのよみがえりである。このことを何としても伝えたかった。キリストは「私たちの罪のために死なれ」「葬られ」、そして「三日目によみがえられた」のである。
よみがえられた主は、ケパ(ペテロ)に現れ、十二弟子に現れ、その後五百人以上の兄弟たちに同時に現れておられた。その内の大多数の人はなお生存しており、ヤコブに現れ、使徒たち全部に現れ、最後に自分にも現れて下さったと証言している。彼にとっては、神に背いていた自分にも神が目を留めて下さったことが何よりであった。全く見当違いに復活を否定していた自分に、主が現れて下さったことは、この上ない恵みと言う他なかった。確かな証拠に背を向けていた者に対し、主ご自身が手を差し伸べて下さったことに、どんなに感謝しても感謝し切れないのである。彼はその測り知れない恵みに対し、福音を宣べ伝えることによって精一杯答えようとしたのであった。(9〜11節)
3、復活の主が同時に五百人以上の人々に現れたと証言されている。このことから考え、主の復活を信じる人はかなり早い時期に千人に近づき、五旬節の日に、三千人ほどが弟子に加えられる下地があったと推察出来る。イエスを信じて罪の赦しに与るとの福音のメッセージは、復活によっていよいよ確かに人々に伝わったのである。罪の赦しを得て救われることが確かなこととして受け入れられ、今生きていることが、神によって生かされていることの実感が人々の心に与えられた。そして復活の信仰により、一切の恐れから解き放たれた者は、この福音によって支えられる日々を過ごす者となるのである。復活の信仰こそ、死の恐れを打ち破る勝利の信仰である。(※使徒2:37〜47)
失意の中で呆然としていた弟子たちは、復活の主によって力をいただき、この方こそ救い主と証言し続けた。この世で迫害され、命を脅かされ、人々から理不尽な扱いを受けること度々であった。けれども「この福音によって」救われているとの確信はいよいよ堅くされ、どんな恐れにも立ち向かう者となった。復活の主が共にいて、弟子たちを支え、励まし、守っておられたからである。キリストの十字架と復活を宣べ伝える福音こそ、心くじける者や悩み苦しむ者を立たせる力、真の望みの源である。人は誰一人自分の力で生きているのではなく、神によって生かされているのである。本当に生きるのには、復活のキリストにあって生かされる以外にないのである。
<結び> 私たちは皆、それぞれ地上の日々を生きている。詩篇によると、「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」と言われる。(詩篇90:10)国により、また時代によって平均寿命は違っている筈であるが、これは人の命の普遍性を指摘しているのであろう。(今日の日本はプラス十年か・・・・)実際には若くして世を去る人、生後間もなく召される人、百歳以上長生きをする人など様々である。どのように生きるとしても、神を恐れて生きるか、神が遣わして下さった救い主を信じて生きるか、福音を信じて生きるか、人の生き方が決まるのである。
キリストの十字架と復活の福音は、信じる者に永遠の命を与え、罪の赦しを与えるもの、真の救いへの唯一の道である。この福音によって私たちは真の命を生きる者とされている。復活のキリストを信じて、心を揺るがされることなく生きる者としていただきたい。主の日毎に私たちは復活の主にお会いするが、復活の証人として、私たちが世に送り出されることを心に留めたい。この福音によって救われ、生かされ、支えられていることを、遣わされている所で証しし、また主の日に復活の主にお会いして力をいただく、そんな歩みを大切にしたいものである。そしてパウロのように「神の恵みによって、私は今の私になりました。・・・・それは私ではなく、私にある神の恵みです」と言えるなら、何と幸いなことであろうか!
|
|