礼拝説教要旨(2007.04.22)   
              あなたはわたしを愛しますか     (ヨハネ20:15〜23)

 二週間前にイースターの礼拝をささげた私たちは、復活の主イエスを確かに信じる信仰へと、思いを新たにさせられて歩んでいる。主イエス・キリストの十字架と復活を信じればこそ、私たちは罪を赦され、永遠のいのちを与えられ、よみがえりの希望に生きることが出来るのである。

1、「復活」は最も大切なこと、けれども最大の「躓き」であることは前に触れた通りである。復活の主にお会いした弟子たち自身が、到底信じられないことであった。彼らが信じるために、彼ら自身が何か出来るわけではなかった。主ご自身が弟子たちの前に姿を現し、語りかけ、共に食事し、疑う者には手とわき腹の傷跡を示して、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(27節)と語っておられた。弟子たちの一人一人にとって、主が復活された「週の初めの日」は特別の日となり、復活にいのちの光を見出し、「週の初めの日」に公の礼拝をささげるキリスト教会の歩みが広がって行ったのである。

 このような教会の歩みが確かなものになるために、主が弟子たちに心を込めて接しておられることは驚くほどである。マグダラのマリヤに、人々を恐れて閉じこもっていた弟子たちに、疑うトマスに、そしてガリラヤに戻った弟子たちにご自分が生きていることを悟らせておられた。と同時に、ペテロに対しては特別の配慮をしておられた。復活の朝、かなり早い時期に主はペテロに姿を現しておられた。(ルカ24:34、コリント第ー15:5) 決して躓きませんと豪語したにも拘わらず、三度も主を否んだペテロに対して、主は彼一人の所で姿を現しておられた。そしてガリラヤでまた語りかけられたのである。

2、「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(15節)「あなたのためにはいのちも捨てます」(13:37)と言い切り、しかも「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(マルコ14:29)とまで強がったペテロが、三度主を否定したのである。それを思い出させるように、主は「あなたはわたしを愛しますか」と三度繰り返された。彼は自分の失態を思い出さずにはいられなかった。それで「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答える他なかった。主の問い掛けに、心の内が見透かされるようであり、自分の弱さと愚かさを思い知らされていた。けれども主は全てご存知であること、主によって知られている自分こそ幸いとの思いも、内から湧き上がっていたのである。(16〜17節)

 「あなたはわたしを愛しますか」との問い掛けに、「私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と三度答えたペテロに対して、主は、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と三度命じられた。弱さを知って心砕かれたペテロに、ご自身の民、キリストに従う人々の群れを託されたのである。「私はあなたを愛します」と胸を張る人でなく、主に知られている自分を認めて主に任せられる人を用いようとされた。人の強がりは決して長続きせず、容易く崩れ去るからである。主によって支えられる時のみ、人は確かな力をいただき、力以上の働きをさせていただける。主はペテロをそのような働き人にしようとしておられたのである。

3、主イエスは、更にペテロに将来の務めの大きさ、また厳しさを予告された。彼はただ聞くしかなかったが、「わたしに従いなさい」と命じられた。彼は他の弟子と自分を比べてしまったが、「あなたは、わたしに従いなさい」と言明された。主イエスを愛し、主イエスに従うことは、あなたがすることであり、あなた自身で決めることです、と主が迫っておられた。(19〜23節)彼は自分のこれまでの歩みを心に留めながら、これからの歩みを思い描いたに違いない。もはや強がることは不可能であった。しかしそれは幸いであった。主を愛しますとは言えない自分がいた。けれども主を愛している自分を主が知っていて下さると信じていた。ここに光があったのである。

 主イエスの三度の問い掛けとペテロの三度の答えにおいて、「愛しますか」「愛します」と訳される言葉が「アガパオー」と「フィレオー」と使い分けられていることについて、いろいろ解釈がなされている。主はアガペーの愛で愛しますかと二度に渡って問うておられるものの、ペテロは三度ともフィレオーの愛で答えているのは、アガペーで愛するのは不可能だから、そして主が三度目にフィレオーで問い掛けられたのは、彼を思いやられたから・・・・と。主のペテロに対する思いやりは底なしとしても、実際はアラム語で話されていた。それ故、ギリシャ語の使い分けを殊更に重視するより、三度のやり取りによって、心からの愛に生きるよう「あなたは私を愛しますか」と問うておられたと解すべきであろう。愛のない自分を主に委ね、主からの愛に頼ることこそ主の民には必要だからである。

<結び> 主イエスは、「わたしはあなたを愛している。あなたを赦している」ことをペテロに悟らせようとされたのである。失敗を忘れず、弱さを認め、赦された者としてわたしに従いなさいと教えておられた。彼はその意図を心から悟った。(17節)主の教会は実にこのような信仰者によって成り立つのである。世の中は常に強者によって成り立つがごとく、強い者や力ある者が胸をはって威張っているのに対して、主はそれと正反対の生き方を弟子たちに求めておられた。十字架と復活を経験する以前の弟子たちは、主の意図を理解できずに強がったが、今やその意味する所をはっきりと理解するようになったのである。(※参照:ルカ22:31〜32)

 私たちはどうであろうか。主イエスから「あなたはわたしを愛しますか」と問われたなら、何と答えるであろうか。「はい。私はあなたを愛します」と胸を張って答えるだろうか。それとも「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」と答えるだろうか。私たちには、躊躇いなく「私はあなたを愛します」とか「他の人より、私こそあなたを愛します」と答えたい、そんな思いが内に秘められているようでもある。何事も一番になることが正しいと教えられ、そのために生きているからである。しかし、主の民はそのような生き方から解き放たれている。主に知られている自分を認めて平安をいただけるからである。復活の主に愛され、この主を愛し、主に知られている自分を感謝し、主に用いていただこうではないか。キリストの教会の歩みは、心砕かれた弟子たちが主によって用いられて今日に至っているからである。