受難週、イースターを過ごした私たちは、復活の主イエスにお会いすることが出来たであろうか。特に先週は、復活の主が共におられる所に、いのちの希望が溢れると教えられた。今週も引き続き、主イエスの復活の出来事に目を留め、み言葉に耳を傾けてみたい。
1、私たちクリスチャンの信仰の中心的内容は、主イエス・キリストの十字架と復活である。十字架と復活が福音の中心メッセージであることは、使徒パウロがコリントの聖徒たちに語った通り、世々の教会にとって揺るがしてはならないことである。(コリント第ー15:1以下)けれども、よく耳にすることは、「十字架は信じられても、復活はどうしても信じられない」という人々の戸惑いである。今信仰を持っている人でも、かつてはとても信じられなかった自分を思い返すことが出来る。死人の復活は有り得ないこと、だから十字架で死なれたイエスが、よみがえったとは信じられない・・・・と考えるのである。
「復活はどうしても信じられない」という主張に対して、長い教会の歴史の中で、信じられるよういろいろと手を加えられて来た。イエスは本当は死なずに墓で息を吹き返したというもの、弟子たちがイエスの亡骸を盗んで隠し、復活を言いふらしたというもの、そして弟子たちは幻を見たというもの等、様々な考えによって、信じられない復活を何とか合理的に解釈しようとするのである。挙句は、復活したかどうかはどうでもよく、復活物語によって、弟子たちをはじめ人々が信仰に立って、励ましと力を得たことが肝心とさえ説かれる。しかし、私たちは聖書がどのように記しているか、最初の復活の出来事をどのように告げているか、そこに目を留めることが肝心となるのである。
2、イエスが復活した日の朝、女たちが墓に急いだことを、全ての福音書が告げている。マタイは「マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが」(28:1)、マルコは「マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは」(16:1)、ルカは「女たちは」と記し(24:1)、ヨハネは「マグダラのマリヤは」と告げている。(20:1)彼女たちが準備しておいた香料を持って墓に向かったのは、主イエスにもう一度会いたかったのはもちろんであるが、よみがえったイエスに会うことは考えられず、イエスの亡骸を丁寧に葬るためにこそであった。けれども墓に着いた時、その墓は既に空っぽであった。石は取り除けられていて、イエスの身体はそこになかった。
彼女たちは驚き、戸惑い、恐れるしかなかった。急いで弟子たちに知らせに行く者、墓に留まる者など手分けしたのであろう。慌てて駆けつけたのがペテロともう一人の弟子ヨハネであった。(1〜7節)二人が駆けつける前に、み使いによって「あの方はよみがえられました」と告げられたのに違いないが、皆の前には、亡骸を包んだ亜麻布と、イエスの頭に巻かれていた布切れだけが置かれていた。マリヤの言葉は、その驚きと戸惑いを言い表していた。「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」(2節)「見て、信じた」と記されているが、復活を信じたというより、空っぽの墓の事実を認めたに過ぎなかったのである。(8〜10節)
3、イエスが本当には死なずに息を吹き返したとの考え方は、十字架刑による死を兵士たちが確認した事実と大きな墓石で封印されたこと等によって退けられる。また弟子たちが亡骸を盗んで隠したとの説は、十字架を前に逃げ出した弟子たちにそんな勇気はなく、偽りの復活を宣べ伝えることはほとんど不可能であった。では幻を見たのか。彼らが見たのは空っぽの墓であり、イエスの幻さえ見なかったのである。やがて実際によみがえった主イエスが女たちの前に、そして弟子たちの前に現れ、一人一人を確かに信じる者に変えておられた。到底信じられない出来事も、信じないわけに行かなくなるように姿を現し、一緒に食事をしてまで復活の事実を示して下さったのである。
失意のどん底にあった弟子たちは、次第に勇気付けられ、復活の主が共にいます喜びに包まれるようになった。彼らはそれでもまだ人々を恐れ、立ち上がって何かをする元気に溢れるわけではなかった。そのような弟子たちに対して、主は時間をかけ、丁寧に復活を信じる者へと変えておられた。弟子たちのためには「その日、すなわち週の初めの日の夕方」、彼らの前に姿を現し、平安を約束された。その八日後、一人だけ信じられないでいたトマスのために姿を現された。信じた者は皆、ただぼんやりと信じたのではなく、復活された主にお会いして、心から信じる者となった。そして主は肉の目で見るだけでなく、霊の目をもって復活の主にお会いする道筋を約束され、私たちをも復活の主を信じる者として下さるのである。(29節)
<結び> 主イエスの復活は、十字架の死から三日目の朝、夜明け前のことであった。弟子たちはこれまでの習慣から安息日の礼拝をささげていたが、その安息日が終わった「週の初めの日に」主が復活されたことによって、次第に安息日と週の初めの日が公的な礼拝の日となって行った。彼らにとって主が復活され、生きておられることはそれ程に大きな出来事であった。そのことがユダヤ人によるキリスト教会への迫害となって、対立が一層深まったが、教会にとって「週の初めの日」は、主のよみがえりを記念する特別の日、喜びの日となった。やがて週の七日目の安息日から、週の初めの日を安息日とするキリスト教会の歩みが定着するようになった。その意味で今日、私たちは日曜日を主の復活の記念日=主の日=として礼拝をささげているのである。
私たちが「週の初めの日に」礼拝をささげるのは、主の復活を信じるからである。復活の主にお会いして信仰へと進ませられた私たちが、確かな希望を与えられたからこそ、喜びをもって主の前に集うのである。この地上での困難や思い煩いは、確かに執拗なものがある。自分の力ではどうにもならず、日々いろいろな問題が迫って来る時、私たちは追い詰められ、息が詰まりそうになる。けれども主の日毎、礼拝を備えられているのは大きな恵みである。
復活の主が私たちに近づいて下さるからである。教会は長い歴史の中で、週毎に復活の主を仰いで、その光に照らされる幸いを繰り返して来た。主が共におられる平安を得て、また主からの知恵と力をいただいて新しい週を歩める幸いは、何ものにも勝る宝である。復活の主が共にいます幸いをこの週も経験させていただき、主が共にいます歩みが確かに導かれるように祈りたい。
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