受難週を迎えて毎年思うこと、それは、主イエスご自身が最後の一週間をどのような思いで過ごされたのだろうか、との思いである。いよいよ十字架の死が迫っていた。ご自分の民のため身代わりの死を遂げる時が近づいていた。しかし、人々はそれを理解せず、なお心を頑なにしていた。神の民として、多くの祝福を受けていた筈の民が心を閉ざしていたのである。主は心に迫る思いをもって語り、人々に悔い改めを迫っておられた。今こそ心を低くして神の救いに与りなさい、「わたしのもとに来なさい」と。(※このような主イエスの思い=み思い=に触れながら、受難週に語られた教えに耳を傾けたい。)
1、受難週の前半、主イエスは緊迫した状況の中で、精力的に行動された。対立するユダヤ人の指導者たちがいて、監視の目が張り巡らされていた。けれども宮に入って、集まって来た人々に教えておられた。早速のように反発を受けた時、それをきっかけにユダヤ人たちの頑なさを明らかにする譬えを語り、教えを聞いていた全ての人に、「あなたは神の前に心を開きますか、それとも閉ざしますか」と、問い掛けておられた。主の問い掛けは明確であったので、反発する人々は一層心を固くした。けれども主イエスは更に踏み込んで、神の救いのご計画はこのようなものです、と天の御国の譬えを語られた。
「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。」(2節)神がご自分の民のために用意された救いを、王子の結婚披露宴に譬え、その披露宴の席に連なる幸いとして語られた。神のご計画では、最初に招かれていたのはイスラエルの民、ユダヤ人たちであった。その民が心を閉ざし、招きに背を向けてしまっている事実を譬えは明らかにしていた。(3〜6節)王は全てを整え、祝宴を用意した。招待は二度に渡ってなされたにも拘わらず、客は「来たがらなかった」ばかりか、知らせを「気にもかけず」、王のしもべたちを「殺し」さえした。主は、旧約聖書の時代に、預言者たちが遣わされたこと、民が預言者たちを退けたこと等を明らかにされた。(※主ご自身も退けられることが暗示されていた。)
2、王の怒りは、当然のように背く者たちに下され、祝宴の席への招待は別の人々に振り向けられることになった。(7〜9節)救いへの招きは、ユダヤ人たち限らず、「出会った者みな」になされ、「しもべたちは、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」(10節)ユダヤ人と異邦人の区別なく、またこの世での善人と悪人の区別もなく、誰もが救いへと招かれ、全ての人が分け隔てなく招かれていることが、いよいよ明らかになる。主は一方でユダヤ人たちの頑なさを明らかにし、他方で全ての人に救いの門は開かれている事実を示しておられた。
譬えのクライマックスは、祝宴の席への王の入場である。王は「客を見ようとして」入って来られ、礼服を着ていない一人に「あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに来たのですか」と問い正された。そこにいた他の全ての客は皆礼服を着ていたので、彼は何も答えられなかった。彼は用意出来なかったのではなく、王が用意した礼服を拒んでいたからである。王の祝宴には、王が支給する礼服が備えられていたのであって、彼が着なかったのは、王に対する非礼であり、許されないことであった。彼は、祝宴から追放され、後で悔やんでも悔やみ切れないことになった。(11〜13節)「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(14節)主は、教えを聞いた人々に、あなたは「選ばれる者ですか。救いの祝福に与る人ですか」と問い掛けておられた。
3、主イエスはこの譬えで、全ての人が分け隔てなく救いの恵みに招かれている事実を明らかにし、その救いに与るのは、王の用意した礼服を着る人々であると語られた。人々の心の頑なさを突きながら、「あなたはどうなのか」、「わたしはこの救いをもたらすために来た」と語り掛けておられた。主ご自身の心の中では、やがて捕らえられ、退けられ、十字架で死を迎えることが鮮明であった。ぶどう園の悪い農夫の譬えでは、しもべたちが殺され、自分も殺されることを明らかにしておられる。(マタイ21:28〜46)主は、心砕かれて救いの招きに応えるのは誰か、と迫っていたのである。
救いの恵みに与る不思議さを忘れてはならない。祝宴への招きが「出会った者をみな」に広められ、しかも「良い人でも悪い人でも出会った者をみな」を集めたので、祝宴の席はいっぱいになったのである。その上で、王は客に「礼服」の着用を問うている。王によって用意され、支給された礼服の着用が問われるのは、着ることを良しとする客の心が問われていた。王の好意を感謝する心である。本来相応しくない者が、礼服の着用により相応しい者とされるのは、救いが信仰によることを明らかにしている。神は罪人を招いて救いに入れて下さるが、それは行いによらず、ただ信仰によるのである。その救いのため主イエスは世に来られ、十字架で命を捨てようとし、その前に人々に救いの道を説いておられた。心を込めて語られた主イエスのみ思いを、果たしてどれだけの人が受け留めたのであろうか。
<結び> この譬えとほぼ同じ教えがルカの福音書に記されている。(ルカ14:16〜24) 主は別の機会もに、救いの恵みに与ることの不思議さ、元々選ばれることなく、招かれてもいなかった者が祝宴の席に着けるのは、神の特別な恵みと憐れみによることを語っておられた。(※度々語られたのかもしれない。)神が救いに招いて下さるからこそ、私たちは救いに与れるのである。もし私たちの内にある何ものかによって選ばれ、招かれるとすれば、特に善し悪しを問題とされるなら、決して神の前に出ることは出来ない。私たちの罪深さは、私たちが自覚している以上に深刻だからである。
私たちは、十字架を前にして主イエスがこの教えを語られた時のお心に触れることが出来たであろうか。み思いを理解しただろうか。罪人の救いのために「わたしは来たのだ」と、主イエスは心を込めて語っておられた。(ルカ19:10、ヨハネ10:11、14:1、6)頑なな心を捨て、心を砕かれて救いに与りなさいと。人々が心を閉ざすことが主イエスご自身には明らかであったとするなら、十字架に向かう主は、それこそ孤独に打ちのめされることはなかったのか、心痛むばかりである。しかし、今日私たちこそ、心を開いて、主イエスの十字架の身元へと進み出たい。私のために命を捨てて下さった主イエスを信じて、主のために生きる者としていただきたいと。
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