ローマの聖徒たちの一人一人を次々と思い浮かべ、「・・・・によろしく。・・・・によろしく」と挨拶を述べたパウロは、いよいよ筆を置こうとしていた。けれども、溢れる思いは、なお尽きなかった。先にキリストにあって一致するようにと心を込めて語ったが、その一致を脅かす事柄について、警告を発しないではいられなかった。
1、キリストによる救いを喜び、感謝に溢れて聖徒たちに挨拶を送っていたのは確かである。けれども、その喜びは決して上滑りのものではなかった。数々の痛みや悲しみを経た喜びであり、今後も多くの試練に遭うかもしれないものであった。それ故にパウロは警告を発して、確かな喜びに生きるように、恵みの内を歩み続けるようにと励ますのであった。「兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。」(17節)教会の中に分裂を起こす人たちがいると認めるのは、悲しいことである。しかし、それが現実の姿であったので、心して歩まねばならなかった。
「そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。」(18節)「分裂」の危険を見極めるのは容易ではない。キリストに仕えているようでいて、自分の欲に仕えていること、「なめらかなことば」や「へつらいのことば」が「純朴な人たちをだましている」ことを、一体どのように見分けられるのだろうか。そこでパウロは、従順な聖徒たちに、「善にはさとく、悪にはうとくあってほしい」と励ましたのである。賢くなって、見分けられる人になって欲しいと。(19節)それは主イエスが語っておられたことである。(※マタイ10:16、コリント第ー14:20)
2、教会に惑わす教えが入り込むこと、その教えがはびこって、分裂を起こさせてしまうことは、避けられないのだろうか。避けられないとしたら、どのように対処したらよいのだろうか。一人一人が主に連なり、主によって心を照らされること、主によって固く立たせていただくことが大切となる。主にあって歩む一人一人が悪しき教えに立ち向かう時、「平和の神」が悪しき者を退けて下さる。(20節)しかし、解決は外からもたらされるのではなく、自らの自浄作用を主が導いて下さるのである。真の勝利は、終わりの日まで待つとしても、今聖徒たちが主に従っているなら、サタンは既に退けられていると信じてよいのである。
「分裂とつまずき」についての警告は、私たちも心して聞くべき事柄である。所沢聖書教会は1994年に「分裂」の痛みを経験した。直接のものであったか、間接のものであったか、やや捉え方に違いがあるとしても、教会にとって分裂がどれほど悲しいことであるかを知らされた。今振り返ると、悲しみと痛みを通して、主に仕えることを真剣に追い求めるよう導かれたのは確かである。何よりも、「自分の欲」に仕えることのないように教えられた気がする。人の願いや思いから極力解き放たれ、主のみ思いは何か、主が何を望んでおられるのかを追い求め、心から従うようにと教えられたのである。そして、主に仕えること、互いに仕えることを学ばされている。主が共におられ、主の恵みが満ちるところ、それがキリストの教会だからである。
3、パウロはいよいよ筆を置くにあたって、今自分の傍にいる人々の名を挙げ、彼らからの挨拶を送った。同労者のテモテ、手紙を筆記したテルテオ、家主であるガイオたちがいて、パウロの働きが成されていた。皆同じ主を仰ぐ者として、主にある交わりを喜んでいた。(21〜23節)教会を目に見える建物や目に見える成果で測り易いが、目には見えない部分、キリストの身体として一人一人がそこに連なっている事実こそ尊いことである。教会は聖徒の集まりであり、聖徒の交わりの素晴らしさ、奥深さに気づことが大切となる。私たちは教会をそのように捉えているだろうか。目には見えていない所で、しっかりと主キリストに結び合わされ、また互いに結び合わされていることを。
そしてようやく最後の頌栄に辿り着く。(25〜27節)主なる神の救いのご計画が、イエス・キリストご自身の宣教とご自身の十字架と復活によって実行され、使徒たちやパウロによって福音として宣べ伝えられていること、あらゆる国の人々に知らされていることを覚えながら、「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン」と祈った。キリストによって救いをもたらして下さる方は、「知恵に富む唯一の神」である。この神にのみ、キリストによって御栄えがとこしえにありますようにと賛美する祈りで、この手紙は閉じられた。全てのことの行き着く所は、「唯一の神にのみ栄光がありますように」との頌栄だったのである。
<結び> 「ただ神にのみ栄光を!」との標語は、プロテスタント宗教改革の標語の一つである。「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」と並んで、天のみ国に入る日まで、決して道を逸れることなく歩み続けるため、心に刻むべき言葉である。それを忘れると、たちまち自分に栄光を帰すことを求め、自分自身を誇る罠に陥る。それは余りにも容易く、余りにも身近な事柄である。私たちがこの地上にある限り、誘惑と罠は数知れず、教会と言えども、世の組織や団体と同じように道を踏み外す危険があるからである。
私たちはどのように歩んだらよいのだろうか。私自身、唯一の神にのみ栄光を帰するには、どうしたらよいのか、はなはだ迷うことが多いのも事実である。唯一の真の神がいますことを信じ、この神が私たちに救いを与えるため、み子イエス・キリストを遣わして下さったこと、そしてキリストを信じて罪の赦しを与えられることを信じる信仰を与えられたので、この信仰に生涯変わらず歩ませていただきたいと祈るばかりである。
真の神がただ一人と信じる信仰に、本来迷いが付け入る隙はないことは、感謝なことである。私たちが迷ったとしても、神ご自身は決して揺るがず、ただ一人の神がおられ、私たちを見守り、導いて下さるからである。このお方が栄光を顕して下さることは、この方に従う私たちにとっての幸いである。私たちの歩み、私たちの教会の歩みを通して、唯一の神が栄光を顕して下さることを求め続けさせていただきたい!と心から願わされている。
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