礼拝説教要旨(2007.03 18)   
すべての聖徒たちによろしく   (ローマ 16:3〜16)

  パウロの手紙を携えてローマに向かったフィベのために、「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください」と推薦したパウロは、これを機会に諸教会の交わりが一層深まることを願っていた。キリストの教会は一つであり、離れてはいても霊の一致を喜ぶことの出来る、幸いな交わりがそこにあるからである。彼はローマの聖徒たちの顔を思い浮かべ、一人一人その名を挙げて、「よろしく」との挨拶を送った。

1、第一にその名が挙げられたは「プリスカとアクラ」であった。この夫婦は、パウロの伝道の生涯を終始支え、「同労者」と呼ばれるに相応しい存在であった。「この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。」(3〜4節)二人はコリントの町でパウロと出会い、キリストを救い主と信じる信仰に導かれ、その喜びと感謝から、ずっとパウロの働きを支えていたのである。パウロは天幕職人として二人の家に住み込んで、一緒に働きながら、約3年半労苦を共にしていた。その後二人はパウロの伝道旅行に同行し、パウロに命の危険が及んだ時は、自らの危険を省みることなくパウロを守ったのであった。(使徒18:1〜21、命の危険があったのはエペソでのことか・・・使徒19:28〜41)

 この二人がやがてローマに戻り、二人の家を中心にして福音が広められていたのである。二人にとって、パウロとの出会いは救い主キリストとの出会いであり、救いの喜びは何ものにも代え難く、この救いの福音をローマで広めたいと願ったのであろう。二人はユダヤ人であったが、当時のローマ世界をよく知り、パウロの異邦人伝道を支え、ローマの町で二人の家は、「家の教会」として多くの人が集うようになっていた。パウロは二人から、教会の様子をよくよく知らされていた。教会の業、神のみ業は、いつの時代でも献身的な人の働きを介して前進するのである。※私たちはどのように用いられるのであろうか。

2、「アジアでキリストを信じた最初の人」である「エパネト」、ローマの教会のために「非常に労苦したマリヤ」、パウロと同国人で一緒に投獄された「アンドロニコとユニアス」、「アムプリアト」「ウルバノ」「スタキス」、次々と名を挙げて「よろしく」と告げた。それぞれに「・・・・の・・・・」と語れたのは、それだけパウロが一人一人をはっきりと覚え、その人その人をよく知り、その人のために祈っていたことを物語っている。またローマの聖徒たちが、それまで知らなかったことを知らされ、互いによく知り合って交わりが深められることを、パウロは願っていたからである。

 「アペレ」「アリストブロの家の人たち」「ヘロデオン」「ナルキソの家の主にある人たち」・・・・と、「よろしく」と伝えて欲しい人の名が尽きることなく挙げられる。キリストの体である教会とは、実に多くの人がそこに集められている所だからである。ユダヤ人も異邦人も、アジア人もローマ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、男も女も、全て神によって招かれ、救いに与ることが許されている。正しくローマ教会は、多くの様々な人々が招かれ、出入りしていた。その一人一人をパウロは覚え、思い描いて手紙を書き、「よろしく」と伝えたかったのである。

3、ほとんどの人は、ここでただ一度その名を挙げられているだけである。けれども、その信仰と生活、主にあって労したことが覚えられていた。それはパウロに覚えられていただけでなく、天において父なる神と主キリストによって覚えられていたのである。(※ヨハネ10:1〜18、3節、14〜16節)パウロはその「すべての聖徒たちによろしく」と伝えた。まだまだ覚えきれない多くの聖徒たちががいたに違いなかった。それで「すべての聖徒たちに」と語った。福音は人から人へと確実に広がっていた。彼らの中には、当時の奴隷であった者や奴隷から自由人になった者が含まれていたと考えられ、それぞれ自分の生活の範囲の中で、身近の人に喜びの福音を伝えていたのである。それこそ福音の広がりのカギと考えられている。

 「ルポス」について「主にあって選ばれた人」と言われている。主イエスの十字架を無理やり背負わされたクレネ人シモンについて、マルコ福音書は「アレキサンデルとルポスとの父」と記している。(マルコ15:21)この福音者が主にローマのクリスチャンたちのために書かれた背景から、「ルポス」は同一人物であり、神の不思議な導きと選びによって、教会の交わりに加えられていたと考えられている。神は実に一人の人の一生を、その人自身が思いもつかない時から、全く不思議な形で導いておられるのである。一人一人は、教会の交わりに導かれたこと、キリストに出会い救いを与えられたことを喜び、その喜びを身近な者に分かち合うことを通して、主の栄光を顕すことが出来るのである。

<結び> パウロはきっと全員の名を挙げて、「よろしく」との挨拶を交わしたかったのであろう。キリストの教会には、全ての聖徒たちに対して、全く分け隔てのない愛の交わりが満ち溢れていること、それが彼の確信であった。それで「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。キリストの教会はみな、あなたがたによろしくと言っています」と、互いの愛の挨拶を勧めたのである。キリストの十字架のみ業によって、敵意は全く葬り去られたからである。だからこそ、教会では真実な愛を込めた挨拶が可能となる。教会で聖徒たちが相和して挨拶を交わしている様子、それはさながら天国の幸いの前味なのである。

 私たちにとって、パウロのように他の教会の聖徒たちを覚える機会はそれほど多くはない。しかし、自分の教会内において、パウロほど一人一人に深く関心を示し、よくよく覚えているだろうかと問うなら、反省することしきりではないだろうか。共に救いに与り、同じ教会の交わりに導かれた者として、主を喜び、互いに覚え合うこと、祈り合うこと、愛に溢れた挨拶を交わすことを心掛けたいものである。互いに愛し合うことは、互いに関心を示し合うことにもつながり、「よろしく」あるいは「こんにちは」との挨拶を交わすことによって、主にある交わりはいよいよ豊かなものとされるに違いないからである。(※詩篇133:1〜3)