パウロは、「私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください」と祈りを要請していた。そしてローマの聖徒たちのためには、「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」と祈りをささげた。平和の神が共にいますこと、この神のご臨在の下に教会は確かな歩みが導かれるからである。手紙はいよいよ終わりに差し掛かっていたが、最後に一人一人、その名を挙げて私信を届けようとしたのが16章である。先ずはこの手紙を携えてローマに向かったフィベを紹介した。
1、「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの姉妹であるフィベを、あなたがたに推薦します。」(1節)彼女は丁度ローマ行きの用があったのであろう。パウロはローマではなく、エルサレムへと向かうことになり、自分の思いを込めた手紙を彼女に託すことになった。手紙はテルテオ(22節)の口述筆記によったようで、数日の間に集中して書き上げられたと考えられている。手紙を届けるフィベが、どのように迎えられるのか、多少の心配もあったに違いない。ローマの聖徒たちの中には、今度は自分たちの所に来るのではないか、来てくれるに違いないと、期待を膨らませていた人もいたと想像出来る。もし裏切られた感じるなら、その不平不満を彼女にぶつけるかも知れなかった。
パウロは配慮を込めてフィベを紹介した。彼女はケンクレヤの教会で執事として用いられていた。(※初代教会において婦人執事が立てられていた有力な証拠である。)執事職は、霊的にも物質的にも、人々に助けの手を差し伸べる大切な職務であったが、彼女はその職務をよく果たしていた。「この人は、多くの人を助け、また私自身も助けてくれた人です。」(2節)彼女の存在と働きがあってこそ、宣教の働きは成り立っていたと言う。果たして言い過ぎであろうか。実際に教会もパウロ自身も、彼女による経済的な助けを大いに受け、人々から信頼と尊敬を寄せられていた。だから安心して彼女を迎えて下さいと推薦したのであった。
2、主イエスの地上の生涯においても、婦人たちの存在、そしてその働きはとても大きな役割を担っていた。十字架を見届け、墓への葬りをしっかりと見届けた「ガリラヤからイエスについて来ていた女たち」(ルカ23:49、55)は、イエスの伝道の働きを影で支えていた人々であった。(ルカ8:2〜3、マルコ15:40〜41))「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」(ルカ9:58)と言われているが、実際には日々の必要を、多くの人々の助けによって満たされ、支えられながら、福音を宣べ伝えておられたのである。ベタニヤのマルタとマリヤの家にはしばしば泊まり、もてなしを受け、身体を休めてもおられたと考えられる。(ルカ10:38〜42、ヨハネ12:1〜8) 弟子たちのみならず、婦人たちの存在があって主イエスの働きは成り立っていたのである。
今日に至るまで、教会は長老たちの働きに加え、執事たちの働きを得て、その働きを続けているのである。執事の職務については、使徒の働き6章1節以下の出来事を境に、新約の教会に立てられたものとされている。霊的な必要ばかりでなく、物質的で実際的な必要を満たすことが教会にとって欠くことが出来なくなったからである。福音の広がりのためには、益々その必要が増大し、パウロの宣教において、どこの教会でも重要な役割を担っていた。今日も執事職は教会全般に渡り、とても重要な働きであり、婦人たちがこの働きに占める割合は、どこの教会でも大きくなっている。フィベのように、教会に仕える姉妹が起こされること、それは教会の宝となるのである。
3、パウロは、このフィベをローマの聖徒たちに推薦したが、「どうぞ、聖徒にふさわしいしかたで、主にあってこの人を歓迎し、あなたがたの助けを必要とすることは、どんなことでも助けてあげてください」という言葉を添えた。彼女を「聖徒」として受け入れることはもちろんのこと、受け入れる人たちが「聖徒」であることを自覚し、「聖徒にふさわしいしかたで」迎えるように勧めたのである。「聖徒にふさわしいしかた」とはどのようなことを指すのであろう。「主にあってこの人を歓迎し」と語られているので、主を信じる者同志、互いに心を開き、信頼して迎えるようにとの意味が込められている。助けの必要があれば、「どんなことでも助けてあげてください」と。彼女が何の心配もなく迎えられること、そのことをパウロは願っていたのである。
信仰の仲間に対して、どのように接するのが「聖徒にふさわしいしかた」なのか、それを自らに問うこと、それが大切なのではないだろうか。聖徒らしく、クリスチャンらしく等など、いろいろな言い方が出来るが、・・・・らしくとか、・・・・に相応しくとの教えは、ともすると自分で考えるのは棚上げして、決められた通りにすることや、教えられたままを行うことに陥り易い。心を込め、真実に友を迎えるにはどうするのか、初対面であっても主ある家族には、どのようにするのか、救いの喜びを共有するにはどうするのか、一人一人真剣に考えるようパウロは求めていた。主にある者にとっては、救いの喜びが湧き溢れているかどうか、そのことが問われていたのである。
<結び> 私たちは、改めて自分の信仰が問われていることに気づかされる。「聖徒にふさわしいしかたで」生きているだろうか。大切なことは、自分が「聖徒」とされていること、主イエス・キリストの十字架のみ業によって救いに与ったことを心から信じて、喜びに溢れているかどうかである。罪を赦され、滅びではなく命に移されていること、この救いに勝るものはない。人として真の命に生きるよう、私たちは導かれているのである。「聖徒」としての自覚をはっきりと持たせていただき、主を喜び、互いに喜んで仕え合うことを、是非とも導かれたいものである。
私たちの教会を訪ねて来られる方があるなら、(新しく来られる方に対して、また他教会から移ってこられる方に)「聖徒にふさわしいしかたで、主にあって」その人を歓迎し、もし助けが必要なら、「どんなことでも」喜んで助けることが出来るよう整えられたい。また、普段から、「聖徒にふさわしいしかたで」互いに仕え合い、支え合う交わりが築かれることを心から願いたい。教会に「聖徒にふさわしいしかた」が満ちる時、言葉にも行いにも、きっとキリストの香りが満ち溢れるに違いない。主にあって、喜びに満ちる教会の交わりが導かれるよう、心から祈りたい!!(ピリピ4:4〜9)
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