礼拝説教要旨(2008. 1. 6)    
ひれ伏して拝んだ                (マタイ 1:1〜12)
  主の2008年を元旦礼拝から歩み始めた私たちは、今朝、最初の主の日を迎えた。週の初めの日を「主の日」として、キリストの復活を記念して礼拝をささげることは、ほぼ二千年に渡って教会が守り続けていることである。この年も「主の日」に礼拝をささげることを、宝物のように、また命の源として続けさせていただきたい。その礼拝にあたり、幼子のイエスを拝した博士たちの姿から礼拝者の心を学ぶことにしたい。

1、ルカの福音書の記述によれば、主イエスがベツレヘムでお生まれになったその夜、羊飼いたちが「飼葉おけのみどりご」を捜し当てていた。彼らは救い主キリストの誕生を喜び、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。彼らは心からの神礼拝に導かれていた。他方、マタイの福音書は「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。・・・」と記し、博士たちの来訪は幾分か時間の経過があったことを暗示している。(1〜2節)

 彼らは、特別な星の出現によって「ユダヤ人の王」の誕生を知り、はるばる旅をしてエルサレムまでやって来た。その旅の目的は、その王を拝むため、王に礼拝をささげるためであった。礼拝のために、通常の生活を止めて旅をする、その思いはどんなものであろうか。単なる外交儀礼や好奇心だけでは説明のつかない、大きな動機付けがあったと考えられる。予備知識は多くはなかったが、知り得た限りにおいて、この王はユダヤ人だけでなく、全世界の人々に関わりのある方、自分にも大きな関わりのある方、だからこそお会いして礼拝したいと願ったのである。この王のもたらす平和を心待ちしていたのであった。

2、新しい王を拝したいとの願いは純粋であった。この世の王「ヘロデ」を全く恐れることはなかった。残虐な王として名を馳せていたヘロデの前で、彼が最も怒りを燃やすであろうことを問いただしていた。ヘロデは大いに「恐れ惑う」とともに、エルサレム中の人が、これから起ることに恐れと不安を抱くのであった。ヘロデは博士たちの前で冷静を装い、祭司長や学者たちに、「キリストはどこで生まれるのかと問いただした。」博士たちは、そしてヘロデも、ユダヤ人の王はキリストのことと理解していたのである。(3〜4節)

 学者たちは答えを告げるのに苦労しなかった。すぐさま「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです」と、ミカ書の預言を告げた。(ミカ 5:2)彼らこそ預言の成就を待ち望んでいる筈の者たちが、そのことなら、ここに書いてあります・・・とばかりヘロデに答えた。ヘロデにとっては、その地名さえ分かればよかった。後は、その新しい王を抹殺すれば済む・・・と。彼は余裕を見せるかのように、博士たちから詳細を聞き出し、時間を特定して、彼らを先にベツレヘムへと送るのであった。(5〜8節)

3、ヘロデを全く恐れなかった博士たちは、ヘロデが何を考え、何を画策するかとは無関係に、ベツレヘムへと向かって行った。その時、「東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった」という確かな導きを経験した。(9節)最初に神が星の出現により彼らを導かれたことが、今また星を通して導いておられると分かるよう、神は彼らに働きかけておられたのである。それで「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」彼らは遂に幼子の所に導かれ、幼子のイエスを見て、「ひれ伏して拝んだ。」(10〜11節)

 ひれ伏しているその様を想像できるだろうか。文字通り頭を地に着けんばかりにひれ伏しているとすると、そこまでの心、気持ちこそ肝心となる。形だけの礼拝ほど、空しいものはないからである。この王に全面降伏するとの思い、全く従いますとの従順な心、柔和で穏やかな心でひれ伏すなら、そのような礼拝こそ真実なものとなる。彼らはそのような心を贈り物に託してささげていた。幼子イエスを真の王として拝した後は、仕えるべきはこの方のみということが、博士たちには明確となった。神ご自身の戒めに従い、「別の道から自分の国へ帰っていった。」ヘロデの指示に従うことなく、別の道を選んで帰って行ったのである。それは生き方の明確な変化であった。(12節)

<結び> クリスマス毎に救い主なるキリストを拝すること、そこには、私たちの信仰を再点検する要素があると教えられる。もちろん主の日毎の礼拝にも・・・。クリスマスの出来事には幾つものメッセージがあるが、幼子の前にひれ伏す博士たちの礼拝は、私たちに礼拝の心を教えている。真の王をひたすら尋ねること、真の王の前にひれ伏すこと、真の王に心から服従すること、真の王に自分の宝をささげること等々、私たちの礼拝の姿勢が正されるのである。幼子の前にひれ伏すためには、心が砕かれ、柔らかくされ、また穏やかにされていることが必要である。自分の心が柔軟であるか、それとも頑なであるかが問われている。

 何よりも心を新しくされること、生き方が変えられることを潔しとしているか、そのようなことも博士たちの姿から教えられる。彼らが「別の道から帰って行った」こと、この事実は私たちに、イエスにお会いしたなら、生き方が変えられることを受け入れるよう迫っている。救い主にお会いして信じたなら、この方を王と認めて、明確に従うのが確かな信仰である。その確かな信仰には、もはやこの世の王を恐れない、喜びに溢れた平安が約束されている。全ての人がこの信仰へと進むよう招かれている。既にイエスをキリストと信じる者にとっても、クリスマスを経るごとに、主イエスへの信仰、また服従を新たにすることを神は求めておられるのである。救い主であり、王であられるイエスにこそ真心から従い、この方に真実な礼拝をささげ続けて、この一年も歩ませていただきたいものである。
(※ミカ6:6〜8、ローマ12:1)