礼拝説教要旨(2008. 1.13)    
私たちに現された永遠のいのち           (ヨハネ第一 1:1〜4))
  新しい年、第二週の主の日を迎えた。今朝からヨハネの手紙第一を学び、この手紙から主のみ旨を探ってみたい。今年は3月23日がイースターとなるので、人となってお生まれになった主イエスが、十字架の死に向かって歩まれたことを心に留めながら、私たち自身の信仰の理解を増し加えていただきたいからである。使徒ヨハネは「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」と語っている。(5:13)この手紙が書かれた目的を理解し、確かな信仰へと私たちが導かれるなら幸いである。

1、ヨハネは、使徒たちの中では長生きをし、福音書の他に三つの手紙と黙示録を記したとされている。但し、手紙では必ずしも自分の名を名のることなく、最初からのことを知る者としての熱い思いを込め、今苦闘する聖徒たちを励ましたいと筆を進めていた。紀元90年頃、エペソの町でこの手紙を記し、当時のアジアの諸教会に届けられたと考えられている。主イエスの十字架と復活から60年程が経過した頃、教会には初期の熱い思いが薄れ、かえって偽教師たちの教えが広がるという現実があった。それに加えてイエスの実在を否定したり、信仰をただ知的にのみ捉えようとする教えが広がっていたのである。

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目でみたもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と冒頭で語られている。(1節)ヨハネは、イエスをキリストと信じる者として、このキリストを伝えることこそ最も大切なことと信じていた。ところが今やこのキリストについて、その存在や足跡が曖昧とされるに至り、危機感を抱いていた。それで、福音書では「ことば」と表現したのを、ここでは「いのちのことば」と表現し、キリストはいのちを持って世に来られた方であり、初めからあったもの、永遠から存在した方がこの地上に来られ、私たちはその方を見、その方の声を聞き、その方に触れさえした方であることを伝えようとした。

2、一般に宗教や信仰を考えると、何か神秘的なもの・・・と捉えるのは世の常である。信仰に関することは、ややもすると抽象的な考えに偏り、日常の生活とは無関係なことに向かい易い。しかし、主イエスは確かにこの世に来られ、この地上を歩まれ、この地上で生きる人々と親しく触れ合ってくださった。人々の生活の中に入って来られ、ヨハネをはじめ、弟子たちは主イエスと親しく接っすることができた。「じっと見、また手でさわった」と言う程に、イエスが実在したことはヨハネにとって確かで、目撃した者として証言しないわけにはいかなかった。(2節)弟子たちは皆、「いのち」そのものである方が世に現れたので、その方にお会いできた。そして、その方の教えを聞き、その方の「いのち」は「永遠のいのち」であることが分かったのである。

 「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。」イエスこそキリスト、キリストこそ永遠のいのち、信ずべき方と伝えたのである。神の御子イエスの誕生は、永遠なる方がこの地上の歴史の只中に現れてくださったことであった。永遠なる方、永遠のいのちである方が人間の形を取って現れてくださった。それによって人々は永遠のいのちなる方を見、その方の声を聞き、自分の手でその方に触れて、その方を信じるようにと招かれた。信じた人々はその方との交わりの豊かさを感謝し、その素晴らしさを他の人々に伝えたのである。(3〜4節)

3、ヨハネは、当時の人々、イエスを信じている人々の間で、信仰が揺らいでいることを憂えていたようである。イエスをキリストと信じた者の中に、永遠のいのちを持っていることの確信が揺らぐ者がいたのかもしれず、教会の交わりに喜びを見出させない者もいたのかもしれなかった。それゆえに、イエス・キリストこそ「私たちに現された永遠のいのちです」と言い切ることによって、歴史上で確かにこの世に来られた方を信じること、この方に望みを置くことは、単なる思い込みではなく、また単なる心の慰めでもなく、人の生死を分ける「いのち」の源が関わっていると宣言した。イエスを救い主キリストと信じることは、全ての人にとっていのちの根幹に関わることなのである。

 イエスをキリストと信じた者の内にキリストが住んでくださることは、その人の内に永遠のいのちなる方が宿ることである。その人は永遠のいのちを持つのである。この世にあって、最早恐れ迷うことはいらず、恐れや不安は取り去られる。この地上でどんな恐れが襲っても、永遠のいのちなる方がその人の内にあって勝利してくださるからである。(5:5)神の御子イエス・キリストを信じる者の内に、キリストが住んでくださるといことは、それ程に確かなこと、大きな喜びの出来事である。(5:13、20)どれ程惑わす教えがはびこったとしても、永遠のいのちを持つ者は揺るがされない。真のいのちを持つゆえに、そのいのちなる方がその人を惑わす教えから守ってくださるからである。

<結び> 紀元1世紀の後半の世界と21世紀の現代の世界とを比べて、人のいのちを巡る事柄に、果たしてどれだけ違いがあるのだろうか。人が生きる上での困難さ、また人のいのちが尊ばれていると思えない現実、そうしたことを考えると、余り違いがない実情が思い浮かぶ。多くの人がこの世の富を優先することに振り回されている。見えないものより見えるものに走り、人の心を大切にするより目先の富に引き寄せられ、見栄えの良さにのみ心を奪われている。その一方で生活の苦しさや病や死が多くの人々を悩ませている。根本的な解決は一体何であろうか。人にとっていつの時代も、確かな拠り所こそ欠くことはできない。永遠のいのちを持つかどうか、イエス・キリストを信じるかどうか、これが世にあって真に恐れなく生きられるカギなのである。

 私たちがイエス・キリストを信じているなら、今一度はっきりと永遠のいのちを持っていることを確信して、恐れなく生きる者としていただきたい。まだ信じていないなら、ぜひとも信じる者としていただくよう祈っていただきたい。何故なら人が人として生きる上で、永遠のいのちを持つか否か、それは本当の意味で生きているか否か、それを分ける程に大切なことだからである。ただ単に肉のいのちを生きるのか、神から与えられた永遠のいのちを生きるのか、滅びに向かう道を歩んでいるのか、それともいのちに至る道を歩んでいるのか、そうした選択を迫るために主イエスはこの世に来られ、そして十字架と復活へと歩まれたのである。教会に集う皆が、永遠のいのちなる主イエス・キリストを心に宿す者として歩ませていただけるよう、心から祈りたいものである。