礼拝説教要旨(2008. 1.20)    
キリストとの交わり   ーコイノニアー          (ヨハネ第一 1:1~4)
 使徒ヨハネは、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(5:13)との思いでこの手紙を書いていた。その思いは、「このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです」と、神の御子イエス・キリストは永遠のいのちそのもであられるとの言明に表されていた。

1、ヨハネをはじめ使徒たちが「永遠のいのち」なる方を伝えたのは、この方がもたらして下さる救いが何よりも尊いものだったからである。御子イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目に死からよみがえられた。その復活により、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と語られた言葉が、確かに信ずべきものと明らかになり、使徒たちは立ち上がることができた。彼らはイエスこそキリストであり、この方にいのちがある、そのいのちは永遠のいのちであると信じた。そのことを知った者は、心が内に燃える経験をしたのであった。(※ルカ24:32)

 復活の主は、使徒たちの前に現れ「平安があなたがたにあるように」と語りかけておられた。(ヨハネ20:19~29)手を差し伸べ、わき腹を示し、復活のからだを彼らに見せておられた。ヨハネは、三年余り主と共に歩んだ日々のことに加え、復活の主を見たこと、その声を聞いたことを含め、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」と語ったのである。そして「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」と語り、あなたがたも父なる神と御子キリストとの交わりを持つこと、それが何よりの願いであると語った。(3節)

2、ヨハネだけでなく他の使徒たち、そして多くの弟子たちにとって、主イエスと過ごした日々はかけがえもなく尊いものであった。振り返ってみるとそれは地上の日々でありながら、天の御国にいるかのような喜びに溢れていた。彼らは決して豊かでなく、かえって貧しく、ゆっくり枕する場所もない、そんな生活をしていた。けれども、心が満たされていたこと、主に愛されていたこと、主によって見守られていたこと、弱さや愚かさは主によって忍ばれていたことなど、測り知れない愛と赦しの中に入れられていた。復活の主にお会いし、やがて聖霊が遣わされて後は、最早迷うことなく、その交わりに入れられていることが大きな喜びとなっていたのである。キリストが共におられる喜びはこの上もない幸いであった。

 そんな豊かな交わりが与えられていることを感謝するからこそ、この喜びを伝えようとした。キリストを伝えるのは、確かに救いのためであったが、その救いに与った者がキリストとの交わりに入れられ、この交わり生きるためであった。永遠のいのちを持つ者が新しいいのちにあって生きること、それが「御父および御子イエス・キリストとの交わり」を持つことに他ならない。神と共に歩む人、キリストと共に生きる人として、言い換えれば、キリストがその人の内にあって生きている人として一人一人が生きるなら、そのような人々の交わりは愛に溢れた交わりとなり、その交わりには喜びが満ち溢れるからである。キリストを伝えるのは、キリストとの交わりを持つ人が増し加えられ、その交わりの喜びが豊かになり、全きものとなるためなのであった。(4節)

3、「交わり」という言葉は、私たちクリスチャンにとって馴染み深いもの、「キリストとの交わり」「教会の交わり」「主にある交わり」等、教会用語の一つである。けれども、本来の意味からそれて使われ、単なる人と人の交わりと捉えられることがある。ギリシャ語の「コイノニア」(※正確な発音は「コイノーニア」)は、共通のものを所有すること、分かち合うことを意味する言葉である。「私たちの交わり」と言うのは、同じものを共有し、分かち合う交わりを意味し、それを「キリストとの交わり」と言うのは、キリストを共有する交わりを指し、キリストのいのちに生きる者たちがそこに集められている交わりということになる。単に共にいて楽しく、和やかな交わりということでなく、キリストにある人々がキリストのいのちを共有し、キリストによって生かされていることを喜ぶ所、それが主にある教会の交わりなのである。

 キリストに結びついている事実を忘れて、教会の交わりを云々することがある。キリストがそこに臨在しておられることを忘れると、互いの弱さや愚かさに振り回されもするのである。ヨハネは、一世紀後半のやや喜びの薄れた教会に向かって、キリストに結びついた人々が、もう確かに永遠のいのちをいただいていることを知ってほしい、そして、キリストのいのちに生きることはキリストにあって生きる人々の豊かな交わりの中で生きること、そこに喜びが満ちると知ってほしいと語ったのである。ヨハネ自身、自分が主と共に過ごした日々がどれだけ充実していたかを思い出していた。主が共にいます喜びや平安、また胸の高鳴りを思い返し、同じ経験をしてほしいと・・・。

<結び> この手紙を記したヨハネの思いに触れながら、心の中に繰り返し思い浮かぶことは、私たち自身の信仰の歩みを振り返ることである。キリストが自分の内に住んでおられることを、どれだけ覚えて歩んでいるだろうか。また教会の交わりの中に、確かにキリストが臨在して下さり、キリストのいのちが満ち溢れていることを感謝し、理解しているだろうか。私自身は、主イエス・キリストを信じて、安心し、教会の交わりの中に居場所を見つけた喜びが、原点になっていた。引越しによって、その喜びがやや見失われることがあったが、その喜びの交わりに戻りたいと願い続けた。そして、その時を主は備えていて下さった。

 その後「教会も人の集まり・・」と思う経験もあり、この地上で、教会は罪を赦されたとはいえ、やはり罪人の集まりと知らされることもあった。けれども、神はご自分の御子の尊い血潮によって、私たち罪人を贖って下さったのである。そしてキリストとの交わりに入れて下さった。この事実は決して揺らぐことがない。これに優る幸いはないと感謝するばかりである。私たちはキリストのいのちをいただいて今生かされている。キリストのいのちを持つ者が互いに愛し合う交わりの中に入れられている。主は、この交わりの中で私たちを育んで下さっている。教会の交わりは、ただただキリストに基づくもので、キリストにあって生きる者は互いに愛し合い、支え合って生きるのである。

 一人一人は弱く、時に愚かで躓きをもたらす者であっても、キリストが一人一人の中にあって生きてくださることを知って喜びたい。キリストにあって生きる者は、必ず造り変えられ、必ずキリストに似る者とされるからである。キリストとの交わりに生きるなら、必ずや神ご自身の御業が、私たちの内に成し遂げられる。私たち自身では成し得ないこと、有り得ないことが起る時、神に栄光を帰すことが導かれる。そのようにして私たちの喜びが増し加えられ、全きものとされることを祈りつつ、歩ませていただきたいものである。
(ヨハネ13:34~35、詩篇133:1~3)