使徒ヨハネは、既に神の御子イエス・キリストを信じ、聖徒として歩んでいた人々に手紙を書き送っていた。一世紀の後半の教会には様々な問題が生じ始め、偽りの教えが入り込んで惑わされる者があり、初めの頃の喜びを見失う人々もいたようであった。「私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(4節)父なる神と御子イエス・キリストとの交わりを持つようになった者の幸い、それは測り知れないものであって、ヨハネは一緒に喜び合いたいと願ったのである。
1、イエス・キリストを信じた者にとって、神がおられ、その神が一切を支配しておられると信じるのは当然としても、神がどのようなお方であるかをはっきり心に留めて生きることは、その人の生き方を大きく左右する。ヨハネは次のように語っている。「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」(5節)使徒たちは主ご自身から多くのことを教えられていたが、今ヨハネは、神は光であること、その神には暗いところが少しもないことを再認識させられていた。惑わされないためには、神の光に照らされることと。
ヨハネは、今自分自身が光なる神に照らされているか・・・と考えたのではないだろうか。どうあがいても人間は不完全で、誠実に生きたいと願ったとしても、現実には偽りに心が奪われ、誠実を捨てるかのように生きている。神の前に全ての人は罪人であるという事実は否定できない。彼はキリストに出会って、自分の罪の現実をはっきり認めさせられたこと、その罪からの赦しをいただいたことを思い返し、罪を赦された者として生きているだろうかと、自分を省みていた。(6節)罪は光なる神に照らし出されて明るみに出るもの、従って、神と交わりがあると言いながら、なお闇があるのは偽りと言わなければならない。もしそのような自己矛盾にあるなら、一層光なる神の前に進み出なければ・・・と心を探られていたのである。(※ヨハネ3:19〜21)
2、「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7節)神との交わりに入れられた者は、神の光の中を歩む者とされている。そのためにこそ、神は御子の血潮によって一人一人を罪から清め、滅びから命へ、闇から光へと移して下さったのである。御子の血潮が聖徒たちを清めて下さるのは、信じた時に赦されたとか、十字架で成して下さったと過去の出来事にしてしまうことではなく、全ての聖徒たちのために日々成して下さることである。神と共に歩む者は、神の光に照らされて歩むのであって、罪を示されつつ、絶えざる悔い改めの中を歩むことになるのである。
日々罪を悔い改めて生きる生き方は、消極的で元気の出ない生き方ではないか、と反論が予想される。神が光であられるなら、私たちも光の中を力強く生きることができる、そのように聖書は語っているのではないか・・・と。確かに光に照らされて歩むことに安心や安全が保障される。けれども、光なる神に照らされる時、人間の罪、また闇に潜む偽りが必ず炙り出されることを見落としてはならない。一世紀後半の教会に偽りの教えが入り込み、その教えに惑わされ信仰を誇り高ぶる者が現れていたので、神によって闇が照らし出されることが強調されたのである。闇が照らし出され、罪が明らかにされて、その人はどうするか、これこそ人の生き方において、最も大切なことだからである。
3、「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、・・・」とは、光なる神の前に、私たち人間が、そして神との交わりに入れられた者が、自分の本当の姿を知らされて生きること、神の前にも人の前にも、正直になって生きることへの問いかけである。偽教師たちがこの世の力をもって惑わすのであれば、真にキリストにつく者は、一層心して御子イエス・キリストの十字架の血潮を感謝し、日毎に十字架の前に進み出ようではないか、と問いかけていた。神に対して、正直に、神が良しとされる正しさを求めて生きることを、私たちは本心から追い求めようではないかと。
自らの弱さや愚かさ、そして罪深さや汚れをはっきりと知る人は、いよいよ真実に十字架の前に進み出る。その人は益々心を砕かれ、神の前にも人も前にも頭をたれ、心を低くする。その時「私たちは互いに交わりを保ち・・・」と言うことができるよう、キリストにある交わりが豊かなものとされる。神との交わりが互いの交わりとして成立し、保たれるのである。ヨハネは、神の前に罪を認め、悔い改めることの尊さを説いた。(8〜10節)人間に真理があるか、それとも偽りしかないのか、その分かれ目は自分の罪を認めて、それを言い表すことにあると説くのであった。
<結び> 神が光であって、その光の中を歩むことは、私たちの闇の部分、罪が明るみに出されて生きることに他ならない。それが時に辛いのは事実である。けれども、光なる神ご自身をはっきり仰ぐことによって、私たちの心は必ず晴れるのである。神が光であるとは、初めに「光あれ」と命じられた、造り主にして、全知全能なる神がおられることを指している。全ての命あるものはその神によって造られ、この地上に存在することを許されている。神と共に生きること、神との交わりの中、神の光の中を歩むことは、人間にとっての最高の幸せと言うことができる。
ともすると神なしに自分を鼓舞したり、徒に人間を誉め、互いに慰め合おうとするのが私たちである。けれども、それは御子イエス・キリストの十字架を空しくし、神の愛を見失わせる最も愚かなことである。自分の誤りを認めず、自分の正しさを言い張ることの空しさが、この世には溢れている。このところ、そのようなことが多過ぎる・・・と思うほどである。日本の社会では、神の光の中を歩むこと、すなわち、罪を照らされ、それを認め、悔い改め、赦されて生きることは、全く思い及ばないことのようである。しかし、それは全ての国の人々の大きな課題である。
真の神の存在を認めないので、どこまでも人を恐れ、赦されることのない恐怖の世界だけが支配しているからと想像できる。光である神がおられ、この神に照らされ、罪を認め、赦しの確かさを感謝して生きることができるのは、何と幸いであるか、今一度心に刻みたいものである。神の御子イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、十字架で命を捨てて下さった。ここに神の測り知れない愛が注がれているのである。
(※4:9〜10、コリント第一1:18)
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