礼拝説教要旨(2008. 2. 3)    
神は真実で正しい方ですから        (ヨハネ第一1:8〜10)
 新しい年も早2月を迎えたが、昨年の世相を表す漢字が、「偽」であったことを覚えている人は多いであろう。また、新しい年こそ「偽」でなく「真」をと願っても、果たして「真実」が「偽り」を退けることができるのか、はなはだ心もとないと思う人も多いのではないだろうか。私たちは「偽り」の根源を知ることがなければならない。それなしに世間の偽りを云々することは空しく、根本的解決はないと気づかされる。神の光に照らされて人間の本当の姿を知ること、罪ある自分を知ることが、何としても必要なのではないだろうか。

1、元旦礼拝にて、「私たち人間の側に偽りがあるとすると、その最たるものは『罪はない』と言うことである」と指摘した。他人の「偽」には敏感でいながら自分の「偽」には鈍感な、そんな私たち人間の姿を思い知らされた。この世に様々な不条理が満ち、多くの不正がまかり通るのを見て、私たちの心は騒ぐのであるが、多くの場合、私たちも一緒になってその不正を裁く側に立っている。不正はまかりならない、悪は退けなければならない・・・と、真剣になっている自分を見出す。ほとんどの場合に、自分も同じ過ちを犯すとは考えることなく、不正に対して怒っているのである。

 しかし、ヨハネは「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません」(8節)と語る。私たちに自分の心の内を探ることを勧めているのである。また「義人はいない。ひとりもいない」との詩篇を引用して、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」とパウロは語っている。(ローマ3:10〜24) 聖書は一貫して全ての人は神の前に罪ある存在であると告げている。その罪を認めないのは、神を偽り者とすることであり、現実にそのような不遜の中にあるというのである。(10節)

2、「罪」とは何か。「罪」を表す言葉は、「ハマルティア」の他に「罪過」と訳される「パラプトーマ」、「違反」と訳される「パラバシス」、そして「不敬虔」と訳される「アディキア」などがある。罪は人の心の内にあって悪を企む思いであったり、外に表れる悪しき行為であったり、いろいろな様相を持っている。一番多く使われる「ハマルティア」は、「的をはずす」という動詞からの言葉で、神によって造られた人間の的外れな行為や、神に敵対する思いや性質などを含め、神の善なる性質に反することを「罪」と言い表していると考えられる。人間のあらゆる悪はこの罪から発しているのである。

 一般的に「罪」とは、行為となって表れた悪のこと、「犯罪」のことと思われている。そのために「全ての人が罪人である」という聖書の教えは、受け入れ難いものとされる。善良な一市民として生きていると自負する人ほど、自分の罪を認めるのは困難となるのである。もちろん悪の限りを極めたからと言って、罪を認めるのが容易くなることはなく、肝心なの、神の前に心の内が明らかにされることを潔しとする、その心が問われるのである。自分を欺いて、罪はないと言い張るのか、また神を偽り者として、自分の正しさを押し通すのか、それとも自分の本当の姿を認めて心を低くするのか、その人の生き方は全く違ってくるのである。

3、「罪はない」と自分を欺くことなく、「自分の罪を言い表す」ことをヨハネは勧める。そうする時、神はご自身の真実さと正しさのゆえに、「その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(9節)罪の赦しは、「神は真実で正しい方ですから」ということを根拠として成り立っている。神の真実さは「しかりはしかり、否は否」にある。罪を裁く方であるが、罪を言い表す者の罪を赦すと約束された、その約束を必ず果たされる。罪の赦しは御子が十字架で流された血潮のゆえに、真心から罪を言い表す者には赦しを与え、全ての悪から清めて下さるのである。(イザヤ53:4〜12、ヨハネ1:29)

 しかし、「自分の罪を言い表す」ことを曖昧にしてはならない。ただぼんやりと「私は罪人です」と告白したのでは、言い表したことにはならない。神が私を見ておられるように、自分で自分の罪を認めることが大事である。この点で神の光に照らされることが、やはりカギとなっている。薄っぺらな告白でなく、心の奥底まで神に探られた上で、自分の罪を言い表すのである。真実な罪の悔い改めと告白に対して、神は確かな赦しを与え、神との親しい交わりを備えて下さるのである。放蕩息子が父のもとに帰ったように、そこには暖かい交わりがあり、大きな喜びが溢れるのである。(ルカ15:11〜32)

<結び> 「神は真実で正しい方ですから」との神認識は、自分を知り、自分の罪を知る上で、欠くことのできないものである。「神は光であって」との理解に加え、「神は真実で正しい方」と知る時、真実で有り得ない人間にとって、この神こそ信ずべき方と知らされるのである。神の真実さはご自身を否むことのないもの、いや否むことができないほどの真実であるというのである。赦しの確かさ、測り知れなさは、その真実さに依拠する完全なものである。神の御子イエス・キリストを信じる者は完全な赦しが与えられ、最早罪に定められることはない。キリストを信じる者の平安は測り知れない!

 だからこそ、その赦しを与えられた者は、神の光の中を確かに歩みなさい、もし罪を犯すなら、日々罪を言い表して、確かな赦しをいただいていることを感謝し、いよいよ心を低くして歩みなさいと勧められている。一人一人がどのように生きるのか、そして教会が世にあってどのように歩むのか、それは、いつの時代、どこの国にあっても、とても大事なことである。神はキリストを信じ、神との交わりに生きる者たちを、いつの時代にも世に送り出し、神の愛を証しする者として期待しておられるからである。確かな証し人として用いていただけるよう祈りたいものである。